Phase031 『東映生田スタジオ』⑥ 【(B)防護壁】


S032001
上:2012年11月
今回は、今もスタジオ跡地南側に佇む(B)防護壁を取り上げたいと思う。
厳密にはスタジオのものではないが、ファンにとっては、『東映生田スタジオ』の遺産と言っても過言ではない。

032001 S032003
左:特写より
右:2011年10月
掲載したのは、『仮面ライダー』制作最初期、防護壁前で撮られた特写スチール。
現在、藪笹や木々に覆われてはいるが、その凛とした姿は往時のまま。

032002 S032005
左:特写より
右:2011年10月
二枚存在するうち、北側(写真右側)の防護壁は、南側のものよりも僅かに背丈が高い。
砂利だった前の道路は、アスファルトに舗装されている。

032003 S032006
左:特写より
右:2011年10月
この特写は、トリミングなどの加工がなされ、関連書籍などでは比較的露出度の高い有名なスチール。
こちらは、南側の防護壁前で撮影されている。
尚、サイクロンについては、マスク同様、諸々の考察、議論が行われているが、ここに写るサイクロンは、フロント・サスペンションの不具合からスリットに切れ込みが入れられた、映像では確認出来ないバージョンである。

032004 032005
上2枚:『仮面ライダー』第4話より
映像の初出は、『仮面ライダー』第4話「人喰いサラセニアン」(Phase028参照)。
本郷(演/藤岡弘)が駆けて行く遠方に、まだ初々しい姿を確認することが出来る。

032006 S032008
左:『好き!すき!!魔女先生』第8話より
右:2011年11月
『仮面ライダー』第4話の次に映し出されたのは、『好き!すき!!魔女先生』第8話「うそつき先生」。
教え子の尾関カズ子(演/荒井久仁江)の虚言に呆気に取られる月ひかる(演/菊容子)のアップ・カットで、その背後に北側の防護壁が記録されている。

032007
上:『好き!すき!!魔女先生』第12話より
S032010
上:2010年12月
また、『同』第12話「宇宙怪人ゾルダ現わる」では、この前をゾルダが闊歩するシーンが描かれた。

032008 S032011
左:『超人バロム・1』第21話より
右:2012年4月
『超人バロム・1』第21話「魔人クチビルゲがバロム・1を食う!!」では、冒頭、酔っ払いのサラリーマン(演/人見きよし)がクチビルゲに飲み込まれるところを、町内肝試し会に参加していた浩太(演/川口英樹)とチャコ(演/南陽裕子)の兄妹が目撃し、ドラム缶の脇に身を隠すシーンで、同じく北側の防護壁が確認出来る。
尚、2012年に入り、北側の防護壁の脇に「多摩美特別緑地保全地区 川崎市」と記された標柱が登場。
また、掲載した写真には写っていないが、近くには「たぬきの道」と書かれた小さな木片も設置され、箕輪氏によると、季節によってはハクビシンも現れるという。

032009 S032012
左:『仮面ライダーV3』第39話より
右:2012年7月
S032013 S032014
左:2012年4月
右:2012年11月
『仮面ライダーV3』第39話「人喰い植物バショウガンの恐怖!!」では、保存人間計画の人材として、デストロンに拉致された山田正子(演/津々井和枝)と弟・修一(演/松田洋治)の劇中写真の背景に、北側の防護壁が使用されている。
尚、掲載した映画像に写るテトラポットのようなものは、経時的色褪せは否めないが、現在も周辺に散乱するものの一部と思われる。

032010 S032015
左:『どっこい大作』第52話より
右:2016年4月
『どっこい大作』第52話「父と母と成人式」で、大作(演/金子吉延)と対峙する勝田金次(演/桂小金治)。
大作が立っているのは、北側の防護壁前。

032011 S032016
左:『仮面ライダーアマゾン』第23話より
右:2011年2月
『仮面ライダーアマゾン』では、第23話「にせライダー対アマゾンライダー!!」において、北側の防護壁前で黒ジューシャが岡村リツ子(演/松岡まりこ)と弟・マサヒコ(演/松田洋治)を誘拐しようとするシーンが撮影された。

S032007 S032017
S032019
上左:2004年4月
上右:2007年12月
下:2009年10月
因みに、以前、防護壁の前面が、鉄パイプで覆われていた時期があり、2009年には、〝事業用地〟と記された看板とフェンスも設置された。
詳細を記すのは控えるが、なんでも以前より再開発の話が持ち上がっていたという。
しかし、「川崎・多摩美の山トラストの会」のご尽力などもあり、「多摩美特別緑地保全地区」としての指定を受け、周囲の緑地帯の再開発は中止、結果、防護壁も保全されることとなったのである(前述の標柱は、その指定を受けて設置されたもの)。
やはり、この防護壁に鉄パイプやフェンスは似合わない。
永遠にこの姿を残して欲しいと願う・・・。

S032020
上:2012年11月
『小田急小田原線/読売ランド前駅』から続くなだらかな坂道を歩いていくと、やがて遠方に灰色の立体構造物が見えてくる。
実際に目の前にすると、静寂の中に際立つ、その独特な存在感に圧倒されるが、長年、陽の光、雨風に晒された結果、特写や映像にあるようなシンプルさ、初々しさは感じられない。
半世紀近い時の流れは、あまりにも大き過ぎる・・・。
しかし、かつて、内田有作らが、この前を毎日のように行き来していたのは、紛れもない事実。
一見、何処にでもあるような何の変哲も無いただの防護壁、更に言えば、単なるコンクリートの塊だが、『仮面ライダー』を愛する者、『東映生田スタジオ』作品に心を奪われた者にとっては天然記念物ならぬ、まさに人工記念物なのである。


(映画像掲載作品)放映順
『仮面ライダー』第4話「人喰いサラセニアン」(1971/4/24放送)
『好き!すき!!魔女先生』第8話「うそつき先生」(1971/11/21放送)
『好き!すき!!魔女先生』第12話「宇宙怪人ゾルダ現わる」(1971/12/19放送)
『超人バロム・1』第21話「魔人クチビルゲがバロム・1を食う!!」(1972/8/20放送)
『仮面ライダーV3』第39話「人喰い植物バショウガンの恐怖!!」(1973/11/10放送)
『どっこい大作』第52話「父と母と成人式」(1974/1/14放送)
『仮面ライダーアマゾン』第23話「にせライダー対アマゾンライダー!!」(1975/3/22放送)


Phase031 End


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Phase025 『東映生田スタジオ』⑤ 【概要&(A)入口方面より】

所長、内田有作。
1971年2月1日、『東映生田スタジオ』始動。

ようやくの思いでスタジオ確保に漕ぎ着けたものの、新番組の放送開始まで残された時間は極僅か。
一息つく間もなく、スタジオでは、急ピッチで制作に向けての体制作り、整備が進められたという。

新番組とは、言うまでもなく『仮面ライダー』(1971年/毎日放送 NET系)。
その黎明期における制作エピソードは、これまでも数多くの関連書籍で披露されているが、何度読み返しても、その興味は尽きない(何れ、まとめてみたいと思う)。

では、『仮面ライダー』以外に、『東映生田スタジオ』ではどのような作品が制作されたのだろうか。
この点についても既知の内容ではあるが、改めてまとめてみたいと思う。

作品年表
上:主な『東映生田スタジオ』作品一覧表(作表/hide男)

ここに掲載したのは、テレビ作品に限ってのもの(各々、放送開始月、終了月を表記)。
尚、過去に刊行された某書籍、及び一部ネットには、『5年3組魔法組』(1976年/東映・NET系)も『東映生田スタジオ』作品であるとの記述が見受けられるが、事実ではない。
また、劇場用作品(テレビ放映分のブロー・アップ版は除く)としては、以下の八作品が制作されている。
・『仮面ライダー対ショッカー』(1972年3月18日公開)
・『仮面ライダー対じごく大使』(1972年7月16日公開)
・『仮面ライダーV3対デストロン怪人』(1973年7月18日公開)
・『飛び出す立体映画 イナズマン』(1974年3月16日公開)
・『五人ライダー対キングダーク』(1974年7月25日公開)
・『フィンガー5の大冒険』(1974年7月25日公開)
・『秘密戦隊ゴレンジャー 爆弾ハリケーン』(1976年7月22日公開)
・『ジャッカー電撃隊VSゴレンジャー』(1978年3月18日公開)

こうして見ると、今も燦然と輝きを放ち、後世に多大な影響を及ぼした作品が実に多いことか。
エポック・メイキングな作品も多く、そこに関係諸氏らの意地と野心、そして夢に満ちた挑戦を感じずにはいられない。

では、その源流・『東映生田スタジオ』は、どのような施設で構成されていたのだろうか。
以下は、「仮面ライダーSPIRITS~受け継がれる魂Ⅱ~」(2003年/講談社)に掲載された「完全図解 これが生田スタジオだ!」(監修/内田有作)をベースに作成したスタジオ概略図である。

img014
上:『東映生田スタジオ』概略図(作図/hide男)
広さ(大きさ)や配置は厳密ではなく、また時期によっても異なるが、第3ステージが増設された頃(詳細は改めて記載)と考えて頂きたい。

関連書籍において、これまで何度か『東映生田スタジオ』の現在がルポルタージュされており、また劇中、スタジオの施設それ自体が、言わばセットとして使用されたこともあるため、すぐさま具体的な画や映像が頭に浮かんだ方も多いのではないだろうか。

そこで、当ブログにおける『東映生田スタジオ』の項では、各施設毎での考察を行い、在りし日のスタジオに思いを馳せてみたいと思う。


025004
上:『仮面ライダーアマゾン』第16話より
S025001
上:2011年10月
まずは、俯瞰アングルから。
掲載した映画像は、『仮面ライダーアマゾン』第16話「ガランダーの東京火の海作戦!!」劇中、「市山火薬工場」という設定で映し出された、在りし日の『東映生田スタジオ』。
左より第1ステージ、スタッフルーム、制作ルーム、第2ステージが確認出来る。
映像でここまで広範囲に記録されているものは、これが唯一(実際の映像では、横パン)。
かつて、両脇に森林が迫り、撮影所としては実に狭く鬱蒼としたこの場所で、内田有作を始めとするスタッフ&キャスト陣は情熱を燃やし、『仮面ライダー』を始めとする数々の作品を世に送り出していたのである。

尚、周知のとおり、『東映生田スタジオ』、もとい「細山スタジオ」は、残念ながら既に存在しない。
1978年、東映(東京制作所)は、『透明ドリちゃん』(テレビ朝日)の制作を以って「細山スタジオ」との賃貸契約を解除。
同年5月6日からは、CFなどの撮影スタジオとして「C.A.L」によって管理、使用されたが、こちらも1995年2月末日を以って完全撤退している。
そして、同年3月、諸般の事情により、全ての施設が取り壊され、現在、その跡地は、「土方第一駐車場」と、「櫟」という一軒の蕎麦屋(但し、2011年5月を以って閉店)に姿を変えている。
因みに、関連書籍や一部ネットには、マンション建設が取り壊しの理由と記されているものがあるが、それは事実ではない(更に言えば、「土方第一駐車場」と「櫟」の建設も、その直接の理由ではない)。


【(A)入口方面より】
025006 025007
上2枚:特写より
MGGSAMA001
上:MGG様ご提供写真より(写①)
S025006
上:2012年4月
掲載した特写は、何れもスタジオ入口方面から敷地内を捉えたアングルで、『仮面ライダー』第1話「怪奇蜘蛛男」クランク・イン直後に撮影されたものと思われる。
尚、当時はスタジオに正式な入口(門)はなく、守衛も配備されていなかったという。
また、写真①は、「Looking for locations.」を開設されているMGG様よりご提供頂いた、「C.A.L」期に撮影された大変貴重なスチールである(厳密には、その読者でいらっしゃる匿名の方からご提供されたもので、1991~92年頃に撮影されたとのこと)。
「Looking for locations.」は、『仮面ライダー』を中心とした70年代の特撮番組のロケ地について、現代のそれと比較・考証をされているブログであり、稚ブログにもリンク先を記しているので、その素晴らしい記事の数々を是非ご覧頂きたいと思う。
現在、手前に広がるのが「土方第一駐車場」、奥に見える白い建物が蕎麦屋「檪」である。

S025011 S025012
S025013 S025010
上左:2009年11月
上右:2010年4月
下左:2011年2月
下右:2012年7月
春夏秋冬、季節によって随分と印象の異なる『東映生田スタジオ』(跡地)。
因みに、かつて、この入口周辺に杭が設置されていた時期があったという。
概略図でいう(A)から西側の笹薮の斜面に沿って歩き、(M)の遊歩道①を抜けると、現在の『多摩美公園』、多摩美2丁目、更には『よみうりランド』へと辿り着く。
しかし、スタジオ在りし頃、関係者らの車輌は勿論、機材搬出入用のトラックなども頻繁に出入りし、徒歩での通り抜けが困難になることが度々あったというのだ。
そこは公道ではなかったが、近隣住民の中には良く思わない方もいらっしゃり、抗議の意思表示として杭を設置されたのだという。
このままでは、車輌が敷地内に進入出来ず、仕事にならない。
しかし、今後もスタジオを運営していくには、やはり近隣の方々の理解と協力は不可欠。
内田有作は、すぐさま話し合いの場を設け、別所に関係者用の駐車場を賃貸すると約束、結果、間もなくして杭は撤去されたという。
このエピソードは、箕輪広実氏より伺ったもので、「親父(箕輪正治氏)から聞いた憶えがあります。実は、先日、○○さん(当時から近くにお住いの方)にこの話をしたところ、「あぁ、そんなことがあったなぁ」と、その方もよく憶えていらっしゃいました」とのこと。
今となっては、懐かしい思い出といったところだろうか・・・。
尚、別途、東映が賃貸した駐車場は、ある『東映生田スタジオ』作品にも記録されており、改めて考証を行いたいと思う。

S025015
上:岡村氏ご提供写真より
掲載した写真は、隣接する住宅にお住まいの岡村克彦氏からご提供頂いた、大変貴重なプライベート・スナップ。
時期としては、1974年末頃と思われる。
トラックの荷台に乗っているのは、『仮面ライダーアマゾン』に登場した十面鬼で、その背後に写るのはスタッフルーム、手前の建物は第2ステージである。
よく見ると、第2ステージの入口扉には、「No88」「東日(映のひへん部分)」「田(生田の田?)」の手書き文字が確認出来る。


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上3枚:2010年4月
写真に写るお二人は、当時のスタジオの様子を身振り手振りで解説してくださっている、その岡村氏(右)と箕輪広実氏(左)。
「彼はとにかくお酒が大好きで、よく一升瓶を担いで家に来た。いい男だったなぁ」とは、岡村氏による内田有作評。
また、「当時はクーラーが無く、夏場は網戸で寝ていたが、ロケに出発するトラックは早い時には朝4時頃から準備をするので、うるさくて寝られなかった(笑)」「町内の会合によく会議室を借りていた」など、岡村氏からは、スタジオに隣接する場所に居住しなければ体験し得ない、居住していたからこそ体験し得たエピソードも数多く教えて頂いた。
更には、「「C.A.L」の頃、ナブラチロワがCMか何かの撮影で来ていて、うちにトイレを借りに来たことがあった。と言うのも、うちは当時から洋式だったけど、スタジオは和式だったので(笑)。その時、息子はテニス部に所属していて、うちにあったラケットを見つけた彼女はサインをしていった。学校から帰ってきた息子は、当然大喜びだった」という逸話も披露してくださった。


(謝辞)
「C.A.L」期に撮影された写真のご提供、並びに掲載をご快諾頂きましたMGG様、そして元提供者でいらっしゃいます「Looking for locations.」読者の方(匿名)に心より感謝申し上げます。
有難うございました。
また、当時の貴重な逸話を披露してくださった岡村克彦氏に、この場を借りて改めて御礼申し上げます。

(主参考文献)
「仮面ライダーSPIRITS~受け継がれる魂Ⅱ~」(2003年/講談社)


(映画像掲載作品)
『仮面ライダーアマゾン』第16話「ガランダーの東京火の海作戦!!」(1975/2/1放送)


Phase025 End


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Phase022 『東映生田スタジオ』④ 【第1ステージの謎】

(編集前記)
ロケ地に関する記事を暫く続けましたので、久しぶりに『東映生田スタジオ』にについて記したいと思います。
前回掲載分は、phase009 『東映生田スタジオ』③ 【真の裏話】(2017/2/14)ですので、それ以前の記事も含めてご参照頂ければ幸いです。



東映(東京制作所)と「細山スタジオ」との間で交わされた賃貸契約について、関連書籍には「1971年、年明け間もない頃」、或いは「1971年1月」といった記載はあるものの、その具体的締結日は何処にも見当たらない。

1971年1月23日という日付は、本契約書、及び覚書の発見によって明らかとなった。

尚、『東映生田スタジオ』には、最終的に第1ステージ、第2ステージ、第3ステージの三棟のスタジオが存在したが、当初はまだ第3ステージは建てられていない。
また、『東映生田スタジオ』における第1ステージ、第2ステージを、「細山スタジオ」ではそれぞれ第2ステージ(№2ステージ)、第1ステージ(№1ステージ)と呼称していたが、その他の施設も含めて、以下、注釈を記さない限り、本項では『東映生田スタジオ』での呼称で統一する。

S023001 S023002
上2枚:1971年1月23日付で交わされた契約書(以下、契約書①)の一部。
右にある石田人士とは、内田有作に新番組(『仮面ライダー』)制作を言い渡した人物である(Phase006参照)。

契約書①における契約期間は、1971年2月1日から同年4月30日までの三ヶ月間。
その対象物件は、以下の四施設であった。
・第2ステージ
・変電室
・スタッフルーム
・生田美術・小道具倉庫

ここで、すぐさま異論を唱えた方もいらっしゃるだろう。
「『仮面ライダー』のクランク・インは、第1話「怪奇蜘蛛男」における本郷猛の改造手術シーンであり、それは1971年2月7日、第1ステージに組まれたショッカー・アジトのセットで行われたはず」だと。

確かにそのとおりである。
しかし、契約書①には、第1ステージの文字が何処にも見当たらない。
一体、どういうことだろうか?

実は、もう一つ、同日付で交わされた覚書(以下、覚書①)、更には第1ステージも対象物件として記載されている契約書(以下、契約書②)と覚書(以下、覚書②)が存在したのである。
そこに何かヒントがあるのではないだろうか?
以下、考察してみたいと思う。

1月23日付で交わされた覚書①には、「貸主(𡈽方氏、箕輪氏)は、第1ステージを貸主(東映東京制作所)以外の第三者に賃貸する場合は、予めその旨を通知の上、了承を得なければならない。但し、その時点において、希望する場合、借主は優先的に当ステージを賃貸出来る」といった趣旨の内容が記されている。

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左:1971年3月1日付で交わされた契約書(以下、契約書②)の一部。
内田の印は、おそらく内田有作のものと思われる。
右:同日付で交わされた覚書(以下、覚書②)の一部。

契約書②の対象物件は、以下の五施設。
・第1ステージ
・第2ステージ
・変電室
・スタッフルーム
・生田美術・小道具倉庫

ここで、契約書、及び覚書に則り、一度整理したいと思う(■・・・変電室、スタッフルーム、生田美術・小道具倉庫)。
1月23日・・・・・・・・・・・賃貸契約①締結(覚書①含む)
2月1日~28日・・・・・・・・使用(第2ステージ+■)
3月1日・・・・・・・・・・・・賃貸契約②締結(覚書②含む)
3月1日~4月30日・・・・・・使用(第1ステージ+第2ステージ+■)

真相は如何に―。
上記した覚書①の内容と、クランク・インを考慮すると、契約書①、及び覚書①が交わされた1月23日以降、遅くともクランク・イン前日の2月6日までに、東映(東京制作)側は、第1ステージについても賃貸を希望し、𡈽方氏、箕輪氏も承諾したと考えてまず間違いないだろう。

ではそもそも何故、同じ「細山スタジオ」の施設であるにも関わらず、1月23日の賃貸契約①締結時に、第1ステージを盛り込まなかったのか、以下に考察してみたいと思う。

まず以って、春の放送開始まで残された時間はあと僅か。
にも関わらず、制作拠点となるスタジオが確保出来ていなかった状況は、東映(東京制作所)、殊に内田有作にとっては、文字どおり危急存亡の心中だったはず。
最低限1クール分の制作に必要な期間(少なくとも三ヶ月ぐらいか?)が賃貸出来さえすれば、スタジオのスペースが余程狭く無い限り、例え一棟だけでも契約を締結したかったに違いない。
そのため、まずは〝スタジオの確保〟を実現させることを優先とし、前述、最低限必要な条件(対象施設)がクリア出来てさえいればよいと判断、その後の使用も鑑み(不測の事態に備え)、第1ステージを対象とした覚書①を準備したうえで、契約書①を締結したのではないだろうか。
或いは、当契約締結時、例の荷物が第1ステージにまだ多少残っていたのだろうか・・・。
これはあくまで憶測の域だが、少なくとも東映側が、間もなくして第1ステージに関しても賃貸を希望したことは、史実からしても疑う余地は無い。

では、何故、東映側が、第1ステージの賃貸を希望した段階(1月23日~2月6日の何れか。但し、セットの組み立てを考えれば、前日の2月6日は有り得ないのではないだろうか)で、別途、契約書は作成されなかったのだろうか。
契約書②、つまり3月1日付で交わされた契約書の第13条には、「本契約締結と同時に、1月23日付で締結した賃貸契約は失効する」旨の記載があり、1月24日以降、2月末日までの間に別途契約書が作成されていないことは明らかである。
この点について、箕輪氏のご子息・広実氏から大変興味深い証言を得ているので紹介したいと思う。

「親父(編注:正治氏)は、日取りを決める時、切りが良い日を好みました。例えば、この件について、実際には1月24日から第1ステージが使用されていたとしても、契約開始日は2月1日にしたと思います。ですから、契約(編注:契約書②)上、契約期間が3月1日になっていることから考えて、東映は2月に入ってから第1ステージを使わせて欲しいと言ったと思います。もしも、1月中に使いたいと言ってきていたら、第1ステージを盛り込んだもの(契約期間は2月1日~4月30日)に作り直し、再契約したと思うんです。この契約書(契約書①)の日付が1月23日になっているのは、最初の契約だったので、実際の日付通りにしたんだと思います。つまり、2月に入ってすぐに、東映は第1ステージについても賃貸を希望、親父たちは、2月中は無償で貸し、3月1日という切りの良い日付でこの契約(契約書②)を結び直したんじゃないかと考えられます。親父は、そういう性格でした」(談/箕輪広実氏)

残念ながら、箕輪正治氏は既に他界されており、また𡈽方氏も憶えていらっしゃらないとのことで、真相は藪の中。
しかし、正治氏の性格を熟知している広実氏の証言は大変興味深く、且つ経時的にも辻褄の合う考察と言えよう。
現段階では、広実氏の推察に則ったこの経緯が、最も信憑性が高いと思われる。

ここで、氏の推察に則り、改めて経緯を時系列にまとめてみると以下のようになる。
1月23日・・・・・・・賃貸契約①締結(覚書①含む)
2月1日~X日・・・・・使用(第2ステージ+■)
2月X日・・・・・・・・東映が第1ステージ使用を希望し、𡈽方、箕輪両氏も了承
2月7日・・・・・・・・クランク・イン
2月X日~28日・・・・使用(第1ステージ+第2ステージ+■)
3月1日・・・・・・・・賃貸契約②締結(再)(覚書②含む)
3月1日~4月30日・・使用(第1ステージ+第2ステージ+■)
■・・・・変電室、スタッフルーム、生田美術・小道具倉庫
X日・・・不明(但し、2月1日~6日と推察される)

因みに、スタジオの運営について、広実氏はこのように仰っている。
「二人の間に明確な役割分担はなかったようですが、交渉は主に𡈽方さんと親父の二人で、経理や事務などの細かい仕事は専ら𡈽方さんに担当してもらっていたようです。生前、親父からそのような話を聞いたことがあります」(箕輪広実氏)

以上、当初のスタジオ使用について、新たに発見された契約書、覚書をもとに考察を試みた。
これら資料は、『東映生田スタジオ』の歴史を知る上で、史料的にも大変貴重なものではあるが、当初、𡈽方氏、箕輪氏、そして石田人士(東映東京制作所)所有用に各々三部ずつ作成されたものの、少なくとも箕輪氏所有分については、残念ながら既に現存しない。

何れにせよ、『東映生田スタジオ』の正式な開設日は、1971年2月1日であったことは断言出来る。


(編集後記)
今回、第1ステージの謎につきまして、愚生なりに考察を試みました。
と申しましても、所詮はド素人の考え。
実は○○ではないか、△△ではないだろうか・・・などのご一考、ご意見が御座いましたら、お聞かせ願えれば幸いと存じます。
宜しくお願い致します。

尚、今回、記載しております契約書、及び覚書は、その性格上、写真も含め、詳細な掲載は控えさせて頂きます。
一部掲載しました写真は、𡈽方工作氏、𡈽方進一氏のご厚意によるものです。
両氏には、この場を借りて御礼申し上げます。


Phase022 End


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Phase009 『東映生田スタジオ』③【真の裏話】

Phase008で、内田らの述懐には多少誇張された部分があるかもしれない、と愚論を述べた。
しかし、ある人物に注目した場合、逆にその信憑性は高まり、概ね真実だったと捉えることが出来るのである。

以下、決して公にはならないエピソードを記し、併せて以前にペンディングとした内容についての真相究明も試みたいと思う。

既述(Phase002参照)したように、「細山スタジオ」で最初に制作されたのは、歌舞伎座テレビ室が手掛けた『新婚さん旧婚さん』(1969年/歌舞伎座テレビ室・日本テレビ)。
その放送期間(1969年7月29日~同年10月28日)を鑑みると、「小日向スタジオ」としての賃貸(使用)期間は、当初の契約では、おそらく1969年6月中旬から同年9月中旬だったと思われる(契約書の類が確認出来ておらず、あくまで憶測)。

しかし、実際に解除されたのは1970年9月30日。
つまり、『新婚さん旧婚さん』放送終了後も約一年間、歌舞伎座テレビ室は、「細山スタジオ」を使用出来る状況にあったのである。
契約が延長され、『新婚さん旧婚さん』を手掛けた後も、同社が何らかの作品を制作していれば考えられなくもない話であるが、その実態は確認出来ない。
しかも1969年の年末には、あの幻の作品『あゝ野麦峠』の制作準備が進められている。
これは、一体どういうことか?

「要は、〝アンちゃん〟だった」(談/𡈽方工作氏)
推して知るべし。
𡈽方氏がそう言うのは、K氏のこと。
そう、歌舞伎座テレビ室との契約時には仲介役を務め、『あゝ野麦峠』制作時には、制作費の管理に携わった人物である(Phase003参照)。
「細山スタジオ」の所有権が𡈽方氏、箕輪氏にあるにも関わらず、彼は、スタジオを始め、建屋については、実際に建築にあたった自分たちにあると主張、両氏の度重なる訴えにも全く耳を傾けず、『新婚さん旧婚さん』制作終了後も、倉庫代わりのように私物相当量を放置し続けたというのだ。
これが、Phase003で明らかとしなかった、一年間の空白を及ぼしたもう一つの理由である。
つまり、K氏による半ばスタジオの私物化が原因であり、『あゝ野麦峠』の頓挫は、寧ろその煽りを喰らったためと考えられる。

そしてもう一つ、前述、実際の解除日〝1970年9月30日〟を目にした段階で、!?と感じられた方はいないだろうか。
Phase002で記したように、『女三四郎 風の巻』(1970年/大映テレビ室・東京12チャンネル)の初回放送日が1970年10月3日であったにも関わらず、契約書では、その二日前の10月1日が大映のスタジオ使用開始日となっている。
その際、「この釈然としない謎は今以って解けていない」とは記したが、実はこの件についても、K氏に着目すれば説明が付く。
つまり、こういう考えである。
実際には、大映は10月1日より前からスタジオを使用しており、その使用開始日X月Y日(8月頃か?)が記載された、賃貸(使用)期間X月Y日~11月15日の本契約書が存在した。
しかし、K氏の私物が相当量あったため、大映側が施設の一部を使用出来ない状態にあり、契約内容とは異なっていたと。
Phase002に掲載した契約書は、実解除となる9月30日、つまりK氏の撤収(全ての私物撤去を含める)を見越して新たに作成されたもの、若しくは諸々のトラブルを想定しての、所謂ダミーではないかと推測する。
事実、その契約書をよく見ると、締結日が空白ではないか・・・。
つまり、1970年初頭から暫くは空白期間があったにせよ、同年夏(8月頃か?)には、「細山スタジオ」は「大映生田スタジオ」と既に呼称されていたということである。

「あれには参った」(談/𡈽方工作氏)
𡈽方氏、箕輪氏の苦悩は続く。
まさかであった。
1970年9月30日付けで契約解除の書類が交わされはしたが、状況は何一つ変わらず、K氏の荷物は放置されたまま。
つまり、10月1日以降も、それ以前と何ら変わらない状態が続いたというのだ。
しかも、その中には、彼が事務員として働かせていたT氏(女性)の荷物もあったという。
こちらについても、推して知るべし。
後々のことを考えると、勝手に処分ことも出来ない。
更に、𡈽方氏らは交渉を重ねたという。
「「あの時は、何度も何度も足を運んで大変だった」と、親父が言っていたのを憶えています」(談/箕輪広実氏)

その具体的な時期は不明だが、最終的には、土方、箕輪の両氏が荷物引渡金、机・椅子代金の名目で代金を支払い、全ての荷物を撤去させたのだという。
そして1971年年明け、今後、「細山スタジオ」とは一切関係を持たない旨の誓約書が、K氏、T氏の連名で提出されている。


P00901S
上:K氏らにより提出された誓約書のコピー


話を元に戻す。
内田らが初めて「細山スタジオ」を訪れたのは、前述の誓約書が出される直前、1970年12月下旬のこと。
𡈽方氏らがK氏らの荷物を最終的に撤去したのは、制作進行の妨げとならないよう、大映との契約が満了となる11月15日以降、その後片付けとタイミングを合わせて行われた可能性が高い。
つまり、この場合、内田らは、ある意味、清浄化された状態を目撃したこととなり、「駆けつけた当のスタジオの中はがらんどう」「側だけのバラック」などの述懐は、決して誇張されたものではなく、まさに彼らが目にした光景だったと言える。
果たして、真相は如何に・・・。

尚、件の誓約書に記された日付は、1971年1月24日。

その日付から「東映との契約を機に、今度こそ何とかしよう」とした𡈽方氏、箕輪氏の確固たる意志を感じるのは愚生だけだろうか・・・。


(編集後記)
以前、K氏について、Phase002で「S社と関係のあったK氏」と紹介しました。
そのS社については、Phase001で「建築請負業者S社」と記しましたが、𡈽方氏のご承諾もあり、今後は「商起」と実社名での表記と致します。それに伴い、記事過去分につきましても、訂正させて頂きます。
𡈽方工作氏、進一氏に、この場を借りて御礼申し上げます。


Phase009 End


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Phase008 『東映生田スタジオ』②【1971年1月23日】

「『柔道一直線』が終盤に差し掛かった頃、「折ちゃん、頼むよ」って言われて。有作さんは全部、話をしない人なんで、何を頼まれたのか分からない(笑)。聞いてみると、どうも大泉を出て別の場所でやるらしいと。有作さんはまた、いろいろ頼む人でもあるんで(笑)、結局、僕が運転してスタジオ探しから付き合ったわけです」(原文一部改、「KODANSHA Official File Magazine 仮面ライダー Vol.3」(2004年/講談社)より)

そう語るのは、折田至。
1965年、東映京都撮影所から東京制作所に異動となった彼は、翌年、『丸出だめ夫』(NTV)で監督デビュー。
『悪魔くん』(1966年/NET)などの演出を経て、内田有作の要請により『柔道一直線』(1969年/TBS)へ参画(内田は同作品で制作担当)、後に、主軸監督の一人として、『東映生田スタジオ』を支えた人物である(Phase004参照)。
彼の言う〝有作さん〟とは、勿論、内田有作のこと。
折田が一年後輩にあたるが、二人の配属先は共に京都撮影所。
面識は、その頃からあったという。

東映東京撮影所が労組問題で揺れていたその裏で、事は極秘のうちに進められた。
新番組は、組合側にとって恰好のターゲット。
会社側にとって、その制作現場を押さえられるということは、切り札的交渉材料を与えたのも同然。
結果、大きなビハインドとなり得たわけである。

その制作拠点を、彼らはまず多摩川周辺に求めている。
当時、他社の撮影所は多摩川周辺に集中していたが、東映は南大泉。
多摩川の近くならば、東映とは縁のないスタジオがあるかもしれない、そう睨んだからだという。
しかし、現実は厳しく、何処も既に先約が・・・、短期ならともかく、長期での契約は難しいというものばかりであった。

そんなある日、転機が訪れる。
「かれこれ二週間は探した頃でしょうか、たまたま訪れた多摩スタジオで、そこにいた大道具さんから「よみうりランドの裏手に、今はもう殆んど使ってないスタジオがあるよ」って話を聞いたんです。その時の感動は今でも忘れられませんね。で、すぐに車を飛ばして行ったら・・・、あったんですよ、平台も何も無いスタジオが(笑)」(談/内田有作 原文一部改、「KODANSHA Official File Magazine 仮面ライダー Vol.1」(2004年/講談社)より)

1970年12月下旬、彼らが行き着いた場所、それが「細山スタジオ」だった。


東映生田スタジオ(1974)
上:在りし日の『東映生田スタジオ』(国土交通省・航空写真(1974年)より)


その時の模様を、内田は、異なる機会で次のように述懐している。

「スタジオと呼べるようなものじゃなくて、平台も無い、側だけ。時々、何か撮っていたらしいですが、平台が無くては本格的なセットは組めないですから、やっていたとしても半端な仕事しか出来ない。殆んど倉庫代わりのものだったんですよ」(原文一部改、「テレビマガジン70’s ヒーロー創世期メモリアル」(1998年/講談社)より)

「尤も、駆けつけた当のスタジオの中はがらんどうでした。(中略)建物自体は建ってから三、四年くらいで、まだ新しかったんですけど、スタジオとは名ばかり。側だけのバラックで、平台も何も無い倉庫のような場所でした」(原文一部改、「仮面ライダーSPIRITS~受け継がれる魂~」(2002年/講談社)より)

また、前述「KODANSHA Official File Magazine 仮面ライダーVol.1」には、「設備が不足していたのは平台(セットを組む上で不可欠な一間四方の木製基礎土台)だけではない。天井を見上げれば照明の足場となるブリッジもなく、ただ裸電球ひとつがブラ下がっているだけ。スタッフルームと称する粗末なプレハブには電話回線さえ通っていなかった」とある。

更に、プロデューサー・平山亨(Phase006参照)は、著書「仮面ライダー名人列伝~子供番組に奇蹟を生んだ男たち~」(風塵社・1998年)の中で、初めてスタジオを訪れた時の様子を回想。
その内田とのやり取りにおいて、「何だ、こりゃ?」「こ、ここで!?スタジオって言うが、何もないじゃないか!」と、自身の言葉を記している。

果たしてこれら述懐や回想が事実であるとするならば、それ以前の『新婚さん旧婚さん』(1969年/歌舞伎座テレビ室・日本テレビ)は、一体どのようにして制作されたのだろうか。
況して、内田らが訪れる約一ヶ月半前まで、「細山スタジオ」では『女三四郎 風の巻』(1970年/東京12チャンネル)が制作されていたのである。
契約の締結、解除の度に、設備の設置、解体を繰り返したのだろうか。
まず常識では考えられない。
事実、三上陸男と高橋章(共に『仮面ライダー』で美術・造型を担当)は、「宇宙船別冊 仮面ライダー 怪人大画報 2016」(2016年/ホビージャパン)掲載用に行われた対談時、「以前から撮影所として使っていたわけだから、全く何もなかったわけじゃないと思う」(談/高橋章)、「一応はあったんだろうけど、随分こっちで作り足しましたよ」(談/三上陸男)と語っている。

また、前述した平山の著書には、内田の言葉として「やろう。今は平台も無いけれど、やると決まればオーナーは平台から照明足場からホリゾントまで必要な物はすべてサービスすると言っている」とある。
しかし、これが記された時点で既に三十年近くが経過しており、況して平山の筆を借りての内田のセリフ。
あくまでニュアンスとして捉えるべきと思われるが、実際に平山を説得するために、内田が鎌をかけた可能性も捨て切れない。

ただこの点に関連して、𡈽方氏からは次のような証言を得ている。
「最初、120坪(編注:ステージ)の中に柱一本なかったんだからね。土台は、正ちゃん(編注:箕輪正治氏)と二人で木を伐って作ったんだ。照明のこれ(編注:ブリッジ)も、二人で上って作ったんだ。ちゃんとした業者に頼むと高いから(笑)」(談/𡈽方工作氏)

具体的時期について、氏は言及されていないが、少なくとも最初に平台とブリッジを作ったのは、𡈽方、箕輪の両氏であり、時期としては、おそらく『新婚さん旧婚さん』の制作開始前だったと思われる。

ただ内田や平山の目からすれば、つまり〝活動屋〟というプロの目からすれば、決して満足のいくものではなかった、それが、一連のコメントのように表現されたのではないだろうか。
一方、「スタッフルームと称する粗末なプレハブには電話回線さえ通っていなかった」という点については、十分に有り得る話である。
固定電話の普及が過渡期であった当初、「細山スタジオ」では臨時で設置したという𡈽方氏の証言(Phase001参照)を鑑みると、契約期間中、つまり実際にスタジオが稼働していた時のみ回線が引かれた可能性が高い。

「細山スタジオ」に対する第一印象について、内田の述懐には、多少誇張された部分があるかもしれない。
しかし、撮影所としてのハード面、更にはソフト面において、それまで彼が見てきた東映の施設とは明らかに異なり、少なくとも当初、満足していなかったことは間違いない。
が、新番組放送開始まで残された時間も極僅か。
かと言って、他に当てもなく、彼は「細山スタジオ」での制作を決意する。

「もう、内田氏のパワーに飲み込まれていた」(「仮面ライダー名人列伝~子供番組に奇蹟を生んだ男たち~」(著/平山亨 1998年/風塵社)より)
平山同様、折田も覚悟を決める。
「東映の社員として、大泉を出てまでやる以上は、これがダメなら人生終わりだなって思ってましたよ。組合を抜けて生田に行って、当然、そちらからも睨まれましたから」(原文まま、「KODANSHA Official File Magazine 仮面ライダー Vol.3」(2004年/講談社)より)


そして・・・。
1971年1月23日、正式契約締結。
内田有作が、石田人士の命を受けてから、約二ヶ月後のことであった。


(主参考文献)
「テレビマガジン70’s ヒーロー創世期メモリアル」(1998年/講談社)
「仮面ライダー名人列伝~子供番組に奇蹟を生んだ男たち~」(風塵社・1998年)
「仮面ライダーSPIRITS~受け継がれる魂~」(2002年/講談社)
「KODANSHA Official File Magazine 仮面ライダー Vol.1」(2004年/講談社)
「KODANSHA Official File Magazine 仮面ライダー Vol.3」(2004年/講談社)
「宇宙船別冊 仮面ライダー 怪人大画報 2016」(2016年/ホビージャパン)


(編集後記)
1月23日・・・、実は当ブログを開設した日でもあります。
正直、拘りました。


Phase008 End


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