Phase045 『東映生田スタジオ』⑧ 【(C)第1ステージ】PartⅡ

群馬県川場村、嬬恋、会津磐梯産の蕎麦粉を丸抜きのまま仕入れ、石臼で自家製粉、その日に使用する分だけを手打ちする。
鰹の本節、枯節に鯖節を少々加えて深みを出した出汁で作るつゆは、厳選した生醤油や約70ものミネラルを含んだ天然塩を使い、化学調味料は一切使用しない。
「せいろ」と「田舎そば」の二種が基本で、共に二八そば。
値段は、「せいろ」750円、「天せいろ」1,800円、「ランチ」1,400円~。
営業時間は以下のとおり。
11:30~14:30(LO)
17:00~20:00(LO)(後に、夜の営業は取り止め)
定休日:火曜日・水曜日


かつて、『東映生田スタジオ』の第1ステージが君臨していた場所には、現在、「手打ちそば 櫟」(以下、「櫟」)という蕎麦屋が建っている・・・が、諸般の事情により、残念ながら2011年5月を以って無期限営業休止に突入。
あれから既に六年という歳月が流れた・・・。


【(C)第1ステージ】PartⅡ


白いコテージ風の洒落た外観で、木の温もり溢れる店内は、いつも落ち着いた雰囲気が漂っていた。
そこで、店主の箕輪広実さんより伺った『東映生田スタジオ』に纏わるお話は、公に出版されている関連書籍では知る由もなかった新鮮で、貴重なものばかり。
当ブログ開設には、後に出会った多くの方々からのご助言や薦めもあったが、やはり箕輪さんとの出会いがなければ、実現していなかったばかりか、そうした多くの出会いもまたなかったかもしれない。
箕輪さん、そして「櫟」との出会いは、愚生にとってあまりにも大きかった。

ポイントを絞って振り返りたいと思う。

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上:2007年12月

①「檪」が、『東映生田スタジオ』跡地に建っている
②箕輪さんが、間接的に『東映生田スタジオ』の関係者である
③蕎麦が美味しい

①について・・・
前述したように、「檪」が建っている場所(駐車スペース含む)には、かつて、『東映生田スタジオ』の第1ステージが君臨していた。
つまり、同店は、『東映生田スタジオ』第1ステージの現在の姿ということである。

②について・・・
箕輪さんとの出会いは、2005年3月まで遡る。
初めての来店であったにも関わらず、息子と愚生は、店員の方に、当時、解明出来ていなかった『仮面ライダー』のロケ地についてお尋ねしたのだが・・・、返ってきた返答は、全く見当がつかないというもの。
やがて店内の混雑が緩和された頃、厨房から明らかに店主と分かる方が出て来られ、「いやぁ、懐かしいですねぇ。ちょうど一年くらい前にも、当時のスタッフの方が、スタジオ跡地や制作に関係した場所の写真を撮りたいからと、訪ねて来られたことがあったのでが・・・。わざわざ△△県からですか?」
これが、箕輪さんとの出会いだった(因みに、愚生が神奈川県に引っ越してきたのは四年ほど前)。
屈託のない笑顔と穏やかな口調、物腰柔らかい対応と愛らしい目、瞬時に愚生ら親子はその人柄に惹かれてしまった。
この時は、他のお客さんもいらっしゃったため、それ以上のやり取りはなかったが、その年の暮れクリスマス・イヴに再び訪問。
他のお客さんが帰られるのを見計らい声を掛けてみると、なんと愚生らのことを覚えてくださったではないか!
夜の仕込みもあったであろう、にも関わらず、暫く時間を割いて、愚生らにお付き合いしてくださったのである。
『東映生田スタジオ』の前身、つまり「細山スタジオ」の創設者は、箕輪正治氏と𡈽方工作氏という地元農家のお二人で、箕輪さんは正治氏のご子息だという事実は、この時に伺った話である。
その後、神奈川県へのロケ地巡りではほぼ欠かさず訪問。
その度に、公には決して語られることのない貴重なお話を数多くご教授頂き、今でも非常にお世話になっている次第である。

③について・・・
これは、もう理屈抜きで美味しい!
中でも一押しは、「せいろ」。
仄かな香りが気持ちを落ち着かせ、茹で加減、冷水でのしめ具合も文句のつけようがない。
「コシがある蕎麦でなく、水のようにすっと入って、後でまた食べたくなるそばを目指しています」(談/箕輪氏)
蕎麦汁は、酸味、辛味、甘味が複雑に絡み合い、口に含んだ瞬間、なんとも形容し難い深い味わいが、延髄の裏側にまで広がっていく。
そして、「天せいろ」に添えられた車海老と季節の野菜数種の天ぷら。
これもまた美味しい!
その味は、マスコミで頻繁に取り上げられる天ぷら専門店も脱帽間違いなし。
主役の「せいろ」を引き立てる役柄でありながら、さり気なく、それでいてしっかりとその存在感をアピールしている。

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上:2010年12月
これが、箕輪さんの魂が込められた「天せいろ」。
妥協無き渾身の作品である。

序に、デザート。
お勧めは、「蕎麦のシフォンケーキ」。
一見、地味とも思えるシフォンケーキの横に、汚れを知らない純白の生クリームが鎮座する姿が、何処か微笑ましい。
勿論、美味で、ケーキなど甘いものは滅多に口にしない愚生でさえ、この時ばかりは甘党に変身する。

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左:2007年12月
右:2010年9月
左が、「蕎麦のシフォンケーキ」。
一見、シンプルだが、香り、味と非常に気品がある。
右は、店内の様子。
写真に写るのは、物腰の柔らかさが好印象を与える、弟子のK君。
動きに一切の無駄が感じられない彼の仕事ぶりは、ついつい見惚れてしまう。


『小田急線/読売ランド前駅』からクネクネと路地裏を抜け、なだらかな坂道を歩いて行けば、その行き止まりとなる谷あいに「檪」は建っている。
店内は、いつ行っても満席。
場所柄、『よみうりランド』からの帰途に立ち寄る方、或いはハイキングの途中に立ち寄る方もいらっしゃるが、わざわざ遠方から車で来られる、上品な年配のお客さんも多い。
そして、あちらこちらから聞こえる「美味しいわねぇ~」の声。
・・・確かに美味しい。
それは間違いない。
しかし、そんな声を聞く度に、正直、何処か複雑な気持ちになってしまうのもまた事実。
温泉に秘湯があるように、我々にとって、「檪」はまさに秘店と言ったところ。
気にいっているからこそ、人には知られたくない、人間が本能として抱くジェラシーのような感覚を覚えてしまうのである。

また、麻生区や多摩区を中心としたロケ地巡りでは、「櫟」での昼食を決めて、前後のスケジュールを企てることも少なくない。
ただでさえ、『東映生田スタジオ』第1ステージが建っていた場所、そこにこの美味しい「せいろ」。
訪問しないわけがない。
在りし日の『東映生田スタジオ』を想像しながら食する「せいろ」・・・、暫し時間が経つのを忘れてしまう空間、それが「檪」である。

・・・それが「櫟」であった。

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左:2007年12月
右:2011年6月
左に掲載した写真は、当時、防護壁の南に設置されていた「檪」の案内板。
「あの(無期限営業休止)後も営業時間の確認や予約の電話が後を絶たず、結局、電話番号を変えました」と、箕輪さんは苦しい胸の内を語ってくださった。
実際、約半年後となる2011年10月、店の前で話をしていた時でさえ、横浜ナンバーの車が来店。
ご夫婦で来られたその方に、閉店した旨を伝える箕輪さんの顔を私は直視することが出来なかった・・・。
右は、閉店を伝える張り紙。

S046008
上:2012年12月
「「櫟」の天せいろ、もう一回食べたいなぁ」
時折、思い出したように息子は言う。
幼少期に数回しか食べたことがないにも関わらず。
以前、この話を箕輪さんに伝えたところ、こう仰っていた。
「そう言ってくださる方が遠く△△県にいらっしゃるだけでも、十年近くやった甲斐がありました」

愚生も息子と一緒である。
もう一度、あの店で、あの「せいろ」を味わいたいと願ってやまない。
必ずや「櫟」は復活する。
K君も帰ってくる。
そう信じて疑わない。

(編集後記)
記事の一部に、敢えて過去形の表現を用いていません。
ご容赦ください。


Phase045 End


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Phase041 『東映生田スタジオ』⑦ 【(C)第1ステージ】PartⅠ

(編集前記)
今回は、『東映生田スタジオ』の第1ステージについて考証を行いたいと思います。
尚、各作品、各シーンのうち、セット内で撮られたものが、具体的に第1ステージ、第2ステージ、若しくは第3ステージの何れのスタジオで撮影されたのか、その全容解明には至っておらず、おそらく今後も前進は難しいと思われます。
また、当Phaseは、第1ステージ全体の把握・考証を目的としておりますので、美術面での考証は最低限の記載に留め、その詳細(三上陸男(当時、「エキス・プロダクション」所属)が手掛けたショッカーのアジト側壁のデザインなど)については、別の機会に譲りたいと考えております。
ご了承ください。


【(C)第1ステージ】PartⅠ
時期によって異なるが、『仮面ライダー』におけるショッカー、及びゲルショッカーのアジト、更にはアミーゴ、立花レーシングクラブ、少年仮面ライダー隊本部といった所謂パーマネント・セット(レギュラー・セット)は、第1ステージに組まれていたと云われている。

「週刊少年マガジン」(1972年49号)では、「漫画家 石森章太郎 テレビ映画監督に変身!」と題して、巻頭カラーグラビア15ページに渡り、第84話「危うしライダー!イソギンジャガーの地獄罠」のビハインド特集が組まれている。
その中には、第1ステージに組まれていた少年仮面ライダー隊本部でのメイキング・スチールも掲載されており、大変興味深い。


最初に、アジトの変遷を簡単に振り返ってみたいと思う。

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上2枚:『仮面ライダー』第1話より(左:映①)
掲載した映画像は、『仮面ライダー』第1話「怪奇蜘蛛男」における本郷猛(演/藤岡弘)の改造手術シーン。
1971年2月7日、『仮面ライダー』の撮影は、このシーンから開始された。
つまり、『東映生田スタジオ』そのもののクランク・インである。

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上:『仮面ライダー』第5話より
掲載した映画像は、『仮面ライダー』第5話「怪人かまきり男」において、ショッカー首領の前に平伏すかまきり男のシークエンス。
基本的には、上下二つのフロアで構成されており、上部フロアには、ショッカー首領のレリーフが、出入り口でもある地球を描いたドアの上部に設置されていた。
一方、下部フロアでは、戦闘シーン(立ち回り)が描かれることも多かったが、「テレビで見るよりも、随分と狭かった」とは、当時、実際にこのセットを目撃された𡈽方進一氏の弁。

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上:6連カード(天田印刷加工)
掲載したのは、当時、天田印刷加工から発売されていた、所謂6連カードの一枚。
セットの上部が記録されたスチールで、ライトとそれを吊るす二重が確認出来る。
僅かに階段部分が変更されているが、2号編になっても基本的なレイアウトに変更はない。

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左:『仮面ライダー』第46話より
右:『仮面ライダー』第53話より
これは、主に第5クールから第6クール(厳密には第7クール第79話まで)にかけて使用されたショッカー・アジトの二階建てセット。
但し、第4クールの第46話のみ、このセットが使用されている(第4クール第47話から第52話までは、旧セット)。

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左:『仮面ライダー』第83話より
右:『仮面ライダー』第98話より
ショッカーからゲルショッカーへの組織再編劇に伴い、アジトのセットも一新された。
レリーフ下の刳り貫きが、あたかも骸骨を彷彿させる。

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左:『仮面ライダーV3』第23話より
右:『イナズマンF』第11話より
また、『仮面ライダーV3』のデストロン、『イナズマンF』のデスパー軍団など、他の『東映生田スタジオ』作品に登場した敵側組織のアジト(本部)も、概ね第1ステージにパーマネント・セットとして組まれていたと思われる(但し、広さを要した『仮面ライダーX』のキングダーク、『仮面ライダーアマゾン』のゲドンのセットは、他のパーマネント・セットとの兼ね合いから、第2ステージに常設されていた)。

しかし、Phase025に掲載した『東映生田スタジオ』作品一覧表をご覧頂ければ一目瞭然、一時期例外はあるものの、『東映生田スタジオ』では、ほぼ二作、三作と数作品の制作が並行して行われていた。
例えば、1972年の3月には、放映中の『仮面ライダー』の他、4月からの放送が決定していた『変身忍者 嵐』、『超人バロム・1』の制作も始まっており、少なくともショッカー、血車党、ドルゲのアジトがパーマネントとして存在していたはず(『好き!すき!!魔女先生』の制作は終了していたと思われる)。
他にも、『仮面ライダー』で言えば、立花レーシングクラブのパーマネント・セットもあり、仮に全てが第1ステージに組まれていたとすれば、解体・復元があったにせよ、時間、配置と、かなり切迫していたのではないだろうか。

尚、「仮面ライダーSPIRITS~受け継がれる魂Ⅱ~」(2003年/講談社)に掲載された「完全図解これが生田スタジオだ!」(監修/内田有作)には、ドルゲ洞、マンション、研究所のセットは、第3ステージに組まれていたように記されているが、少なくとも1972年3月の段階では未だ第3ステージは建っておらず(詳細は、(J)第3ステージの項で考証予定)、これは残念ながら事実ではない。
ドルゲ洞は別として、そうした準パーマネント・セット、或いは単発のセットの中には、第2ステージに求められた部分も少なからずあったと思われるが、詳細は不明である。

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左:『仮面ライダー』第40話より
右:『仮面ライダー』第41話より
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上:ショッカー・レリーフ(所蔵:𡈽方氏)
1972年1月1日に放映された第40話「死斗!怪人スノーマン対二人のライダー」は、『仮面ライダー』史上、初のダブルライダー競演となった記念碑的エピソード。
上左に掲載した映画像は、その冒頭、ショッカー・スイス支部(第1ステージに組まれた旧セットの流用)において、死神博士(演/天本英世)が「日本列島征服作戦」を説明するシーンである。
ここに写るショッカーのレリーフは、当エピソードと翌週に放送された第41話「マグマ怪人ゴースター 桜島大決戦」の二話のみに使用されたもので、下に掲載したのは、現存するその実物。
よく見ると、二階建てセット時に掲げられたショッカーのレリーフにも似ており、このデザインが踏襲されたのかもしれない。

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上4枚:ショッカー・レリーフ(所蔵:𡈽方氏)
𡈽方氏によると、偶さかスタジオを訪れた時だったという。
「捨てるなら、これ、貰っていっていいか?」
近くにいたスタッフから、廃棄されようとしていたこのレリーフを受け取られたとのこと。

映像では分かり辛いが、実際には細部まで非常に丁寧に作り込まれており、「エキス・プロダクション」が、卓越したセンスと職人技を以って如何に仕事に取り組んでいたのかが分かるプロップと言えよう。
既に一部欠落している箇所や、ボンドで補修されている部分もあるが、よく見ると、両翼にはボードに打ち込まれていた釘穴の痕跡も確認出来る。
尚、材質は木で、𡈽方氏によると、『東映生田スタジオ』で使われていた木材料は、近くにある「白井材木」から取り寄せていたとのこと。


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左:2011年7月
右:『仮面ライダー生誕40周年記念 ライダー大集合!』パンフレット
ここで余談。
2011年7月16日(土)から18日(月)の三日間に渡り、新文芸坐において、『仮面ライダー生誕40周年記念 ライダー大集合!』という歴史的一大イベントが行われた。
各日三回構成・各回入れ替え制で、最終日の第三回を除く他の八回は、それぞれ過去の劇場用作品の中から三作品の上映、ゲストによるトークショー、抽選会という内容であった。
その二日目、17日(日)の第2回トークショーは、阿部征司(元・東映プロデューサー)司会のもと、『仮面ライダーX』で仮面ライダーX/神敬介を演じた速水亮、そして、『仮面ライダー』最初期から撮影、照明を担当した川崎龍治、太田耕治によって行われた。
掲載した写真は、その第2回目と第3回目の合い間、喫煙室で偶然にも三人きり(?)となった際の川崎(左)、太田(右)の両氏。
この直前に行われたトークショーで、お二人は映画像①のシーンについて、次のような逸話を披露されている。

太田:
あの話して良い?最初の『仮面ライダー』の冒頭で、藤岡弘が丸い台の上で改造されるシーンがあったじゃないですか。その時、電気を流される描写があって、私の頭の中ではフレアみたいに強い光が下から当たって、人物はシルエットで真っ黒にしか見えないというイメージがあったんですよ。改造とか言っても、所詮ウソだから。あまりはっきり見せない方が良いと思ったんです。その時のキャメラマン、川崎さんの前任者(編注:山本修右)に、「トばして(編注:光で映像が白く見えなくなる状態)くれよ」って言ったら、向こうも「OK!」と。でも、上がってきたフィルムを見ると、全然トんでない。「一体どういうことだよ」って思ったんですけど、あれは何でなの?
川崎:
実は撮影部にとって、「トばす」っていうのは非常に怖いことなんですよ。要するに何も映っていない状態ですから。それでちょっと絞ったんですが、そのことを太田さんには言わなかった。今、考えれば、確かに太田さんの言う通りなんですけどね。

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上2枚:『仮面ライダー』第1話より
これが、問題のシーン・・・、確かに〝トんで〟いない。

また、同トークショーでは、このようなやり取りも・・・。

速水:
お二人が大映の先輩だった(編注:速水は大映ニューフェイス第20期生)ってことは、僕も去年分かったんですよ。ファンの皆さんはご存知でしょうけど、僕がよくインタビューとかで話している「第1話の改造手術シーンで酷いことを言った照明のチーフ」ってのは、実はここにいる太田さんですから(笑)。太田さんは憶えてないでしょ?
太田:
いつも無責任なことを言ってるから憶えてません(笑)。
速水:
1月の寒い時期、僕が冷たい鉄板の上に裸同然で寝かされているのに、そこに暖房も何もつけてくれないんですからね。そうしたら、いつも来ている雑誌社のカメラマンの人(編注:大島康嗣と思われる)が、「寒いだろうから」って俺の傍にストーブ持ってきてくれたんです。そしたら太田さんが「甘やかすな!」って。ホント、腹が立ちましたよ、あの時は。
太田:
(笑)。でも役者ってのはさ、スタッフが厳しくやらないと駄目なんですよ。
速水:
まあ、確かに。歴代のライダーも、そうやって鍛えられてきたんでしょう。

因みに、映画像①が撮影された際のメイキング・スチール(『仮面ライダー 1971~1984 秘蔵写真と初公開資料で蘇る昭和ライダー10人』(2014年/講談社)29㌻掲載写真など)をよく見ると、藤岡弘の背後にストーブが置かれているのが分かる・・・。


閑話休題。
次に、『東映生田スタジオ』作品の中で、第1ステージの外観が映し出されているものを取り上げたいと思う。

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左:『仮面ライダー』第10話より(映②)
右:2009年11月
掲載した映画像は、『仮面ライダー』第10話「よみがえるコブラ男」において、再生コブラ男らが能力実験場へと向かうシーン。
このカットは、第1ステージ北側の外壁を西側から捉えたもの。
この後、この北側に、第3ステージが増築されることとなる。
掲載した写真に写るのは、「手打ちそば 櫟」(但し、2011年5月を以って閉店。詳細はPartⅡで記載予定)。

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上:『仮面ライダーアマゾン』第16話より
『仮面ライダーアマゾン』第16話「ガランダーの東京火の海作戦!!」では、「市山火薬工場」という設定で使用された。

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左:『秘密戦隊ゴレンジャー』第6話より
右:2017年5月
『秘密戦隊ゴレンジャー』第6話「赤い謎!スパイルートを海に追え」では、鉄輪仮面が取引を行う倉庫街の設定で、「田口海運」の看板が掲げられたスタッフルームの背後に映し出されている。
因みに、当エピソードの演出を手掛けたのは、田口勝彦監督。

その他、『仮面ライダー』第39話「怪人狼男の殺人大パーティー」など、スタッフルームの背後に僅かに映り込んでいるシーンもあるが、そちらは(F)スタッフルームの項で改めて取り上げる予定。
また、ご存知のとおり、現在の『多摩美公園』で撮影されたシーンの中には、第1ステージが映り込んでいるものも少なくないが、そちらについても、別途、『多摩美公園』の項で考証を行いたいと思う。。

次に、「C.A.L」期に撮られた写真を紹介したいと思う。

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左:MGG様ご提供写真より
右:2017年5月
これは、「Looking for locations.」を開設されているMGG様よりご提供頂いた、大変貴重なスチール(厳密には、その読者でいらっしゃる匿名の方からご提供されたもので、1991~92年頃に撮影されたとのこと)で、奥に見えるのが第1ステージ。

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左:MGG様ご提供写真より
右:2017年5月
手前に写るのが第1ステージ。
尚、「C.A.L」期には、第1ステージはBステージと呼称されていた。
因みに、「C.A.L」期の1982年6月25日から7月31日まで、スタジオでは大規模な改修工事が行われているが、第1ステージ(Bステージ)については、床コンクリート打設改修、及び水道引込修理だけでに留まっている。
また、それ以前、第1ステージ西側出入り口の北側に、倉庫が増設されている。

では、実際どのような構造、規模を有していたのだろうか。

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上:第1ステージ平面図、及び立面図(所蔵:𡈽方氏)
これは、1969年1月27日に作成された第1ステージの平面図、及び立面図である。
以前、記したように、『東映生田スタジオ』における第1ステージ、及び第2ステージは、「細山スタジオ」では、第2ステージ、第1ステージと呼称されていた。
右上に〝第二スタジオ〟と記されているのは、そのためである。
左の図を反時計回りに90度回転させたのが、右上図となり、右下図は、水路側(ほぼ西側)から捉えた立面図。
建築面積は、393.64㎡(120.8坪)とあり、詳細は改めて記すが、第2ステージよりも僅かに小さかったようである。
建物は、鉄骨外製モルタル塗で、屋根は波型スレートであった。
また南側には、器具倉庫(45.9㎡(記載は約13坪))の文字が見受けられるが、これは、後に、小道具、及び「生田美術」の倉庫として使用された建物で、特写などでは今一つはっきりしなかったが、第1ステージに密接して建っていたことが分かる(後に、第1ステージ東側にも拡張されることとなるが、その具体的な年月は不明)。
尚、出入り口となる扉は、二重構造となっており、西側中央やや南寄りに一つと、北側の合計二箇所に設けられていた。
映画像②に写るのは、北側の出入り口で、上部に見えるのは、ステージ全体の屋根ではなく、その出入り口の霧除け屋根である。
尚、第2ステージについては、高さが示されたもの、更には天井トラス部分の詳細図も現存するが、残念ながら第1ステージについて記されたものは、現段階では発見されていない。
いずれにせよ、第1ステージの概要を知る上では、大変貴重な資料である。

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上:第1ステージ屋根の一部(寄贈:箕輪氏)
前述したように、第1ステージは、鉄骨外製モルタル塗で、屋根は波型スレートであった。
掲載した写真は、現存するそのスレート屋根の一片で、「畑の囲いや納屋を作るのに、もしかしたら利用出来るかもしれない」とのことから、「細山スタジオ」解体時、箕輪正治氏によって保存されたもの。
大変貴重な、まさに一級品の史料と言えよう。
長年、陽の光を浴び、風雨に晒され、時には雪に白く染められたこともあったであろう。
そのため、保存状態は決して良いとは言えない。
しかし、その色褪せ、痛みは、当時、内田有作らが抱いた喜怒哀楽をそのまま反映しているようでもあり、個人的には非常に感慨深いものがある・・・。


(映画像掲載作品)放映順
『仮面ライダー』第1話「怪奇蜘蛛男」(1971/4/3放送)
『仮面ライダー』第5話「怪人かまきり男」(1971/5/1放送)
『仮面ライダー』第10話「よみがえるコブラ男」(1971/6/5放送)
『仮面ライダー』第40話「死斗! 怪人スノーマン対二人のライダー」(1972/1/1放送)
『仮面ライダー』第41話「マグマ怪人ゴースター 桜島大決戦」(1972/1/8放送)
『仮面ライダー』第46話「対決!! 雪山怪人ベアーコンガー」(1972/2/12放送)
『仮面ライダー』第53話「怪人ジャガーマン 決死のオートバイ戦」(1972/4/1放送)
『仮面ライダー』第83話「怪人イノカブトン 発狂ガスでライダーを倒せ」(1972/10/28放送)
『仮面ライダー』第98話「ゲルショッカー全滅!首領の最後!!」(1973/2/10放送)
『仮面ライダーV3』第23話「恐怖!墓場から来た吸血男」(1973/7/21放送)
『イナズマンF』第11話「美しいサイボーグ!暁に分身す!!」(1974/6/25放送)
『仮面ライダーアマゾン』第16話「ガランダーの東京火の海作戦!!」(1975/2/1放送)
『秘密戦隊ゴレンジャー』第6話「赤い謎!スパイルートを海に追え」(1975/5/10放送)


Phase041 End


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Phase031 『東映生田スタジオ』⑥ 【(B)防護壁】


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上:2012年11月
今回は、今もスタジオ跡地南側に佇む(B)防護壁を取り上げたいと思う。
厳密にはスタジオのものではないが、ファンにとっては、『東映生田スタジオ』の遺産と言っても過言ではない。

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左:特写より
右:2011年10月
掲載したのは、『仮面ライダー』制作最初期、防護壁前で撮られた特写スチール。
現在、藪笹や木々に覆われてはいるが、その凛とした姿は往時のまま。

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左:特写より
右:2011年10月
二枚存在するうち、北側(写真右側)の防護壁は、南側のものよりも僅かに背丈が高い。
砂利だった前の道路は、アスファルトに舗装されている。

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左:特写より
右:2011年10月
この特写は、トリミングなどの加工がなされ、関連書籍などでは比較的露出度の高い有名なスチール。
こちらは、南側の防護壁前で撮影されている。
尚、サイクロンについては、マスク同様、諸々の考察、議論が行われているが、ここに写るサイクロンは、フロント・サスペンションの不具合からスリットに切れ込みが入れられた、映像では確認出来ないバージョンである。

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上2枚:『仮面ライダー』第4話より
映像の初出は、『仮面ライダー』第4話「人喰いサラセニアン」(Phase028参照)。
本郷(演/藤岡弘)が駆けて行く遠方に、まだ初々しい姿を確認することが出来る。

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左:『好き!すき!!魔女先生』第8話より
右:2011年11月
『仮面ライダー』第4話の次に映し出されたのは、『好き!すき!!魔女先生』第8話「うそつき先生」。
教え子の尾関カズ子(演/荒井久仁江)の虚言に呆気に取られる月ひかる(演/菊容子)のアップ・カットで、その背後に北側の防護壁が記録されている。

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上:『好き!すき!!魔女先生』第12話より
S032010
上:2010年12月
また、『同』第12話「宇宙怪人ゾルダ現わる」では、この前をゾルダが闊歩するシーンが描かれた。

032008 S032011
左:『超人バロム・1』第21話より
右:2012年4月
『超人バロム・1』第21話「魔人クチビルゲがバロム・1を食う!!」では、冒頭、酔っ払いのサラリーマン(演/人見きよし)がクチビルゲに飲み込まれるところを、町内肝試し会に参加していた浩太(演/川口英樹)とチャコ(演/南陽裕子)の兄妹が目撃し、ドラム缶の脇に身を隠すシーンで、同じく北側の防護壁が確認出来る。
尚、2012年に入り、北側の防護壁の脇に「多摩美特別緑地保全地区 川崎市」と記された標柱が登場。
また、掲載した写真には写っていないが、近くには「たぬきの道」と書かれた小さな木片も設置され、箕輪氏によると、季節によってはハクビシンも現れるという。

032009 S032012
左:『仮面ライダーV3』第39話より
右:2012年7月
S032013 S032014
左:2012年4月
右:2012年11月
『仮面ライダーV3』第39話「人喰い植物バショウガンの恐怖!!」では、保存人間計画の人材として、デストロンに拉致された山田正子(演/津々井和枝)と弟・修一(演/松田洋治)の劇中写真の背景に、北側の防護壁が使用されている。
尚、掲載した映画像に写るテトラポットのようなものは、経時的色褪せは否めないが、現在も周辺に散乱するものの一部と思われる。

032010 S032015
左:『どっこい大作』第52話より
右:2016年4月
『どっこい大作』第52話「父と母と成人式」で、大作(演/金子吉延)と対峙する勝田金次(演/桂小金治)。
大作が立っているのは、北側の防護壁前。

032011 S032016
左:『仮面ライダーアマゾン』第23話より
右:2011年2月
『仮面ライダーアマゾン』では、第23話「にせライダー対アマゾンライダー!!」において、北側の防護壁前で黒ジューシャが岡村リツ子(演/松岡まりこ)と弟・マサヒコ(演/松田洋治)を誘拐しようとするシーンが撮影された。

S032007 S032017
S032019
上左:2004年4月
上右:2007年12月
下:2009年10月
因みに、以前、防護壁の前面が、鉄パイプで覆われていた時期があり、2009年には、〝事業用地〟と記された看板とフェンスも設置された。
詳細を記すのは控えるが、なんでも以前より再開発の話が持ち上がっていたという。
しかし、「川崎・多摩美の山トラストの会」のご尽力などもあり、「多摩美特別緑地保全地区」としての指定を受け、周囲の緑地帯の再開発は中止、結果、防護壁も保全されることとなったのである(前述の標柱は、その指定を受けて設置されたもの)。
やはり、この防護壁に鉄パイプやフェンスは似合わない。
永遠にこの姿を残して欲しいと願う・・・。

S032020
上:2012年11月
『小田急小田原線/読売ランド前駅』から続くなだらかな坂道を歩いていくと、やがて遠方に灰色の立体構造物が見えてくる。
実際に目の前にすると、静寂の中に際立つ、その独特な存在感に圧倒されるが、長年、陽の光、雨風に晒された結果、特写や映像にあるようなシンプルさ、初々しさは感じられない。
半世紀近い時の流れは、あまりにも大き過ぎる・・・。
しかし、かつて、内田有作らが、この前を毎日のように行き来していたのは、紛れもない事実。
一見、何処にでもあるような何の変哲も無いただの防護壁、更に言えば、単なるコンクリートの塊だが、『仮面ライダー』を愛する者、『東映生田スタジオ』作品に心を奪われた者にとっては天然記念物ならぬ、まさに人工記念物なのである。


(映画像掲載作品)放映順
『仮面ライダー』第4話「人喰いサラセニアン」(1971/4/24放送)
『好き!すき!!魔女先生』第8話「うそつき先生」(1971/11/21放送)
『好き!すき!!魔女先生』第12話「宇宙怪人ゾルダ現わる」(1971/12/19放送)
『超人バロム・1』第21話「魔人クチビルゲがバロム・1を食う!!」(1972/8/20放送)
『仮面ライダーV3』第39話「人喰い植物バショウガンの恐怖!!」(1973/11/10放送)
『どっこい大作』第52話「父と母と成人式」(1974/1/14放送)
『仮面ライダーアマゾン』第23話「にせライダー対アマゾンライダー!!」(1975/3/22放送)


Phase031 End


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Phase025 『東映生田スタジオ』⑤ 【概要&(A)入口方面より】

所長、内田有作。
1971年2月1日、『東映生田スタジオ』始動。

ようやくの思いでスタジオ確保に漕ぎ着けたものの、新番組の放送開始まで残された時間は極僅か。
一息つく間もなく、スタジオでは、急ピッチで制作に向けての体制作り、整備が進められたという。

新番組とは、言うまでもなく『仮面ライダー』(1971年/毎日放送 NET系)。
その黎明期における制作エピソードは、これまでも数多くの関連書籍で披露されているが、何度読み返しても、その興味は尽きない(何れ、まとめてみたいと思う)。

では、『仮面ライダー』以外に、『東映生田スタジオ』ではどのような作品が制作されたのだろうか。
この点についても既知の内容ではあるが、改めてまとめてみたいと思う。

作品年表
上:主な『東映生田スタジオ』作品一覧表(作表/hide男)

ここに掲載したのは、テレビ作品に限ってのもの(各々、放送開始月、終了月を表記)。
尚、過去に刊行された某書籍、及び一部ネットには、『5年3組魔法組』(1976年/東映・NET系)も『東映生田スタジオ』作品であるとの記述が見受けられるが、事実ではない。
また、劇場用作品(テレビ放映分のブロー・アップ版は除く)としては、以下の八作品が制作されている。
・『仮面ライダー対ショッカー』(1972年3月18日公開)
・『仮面ライダー対じごく大使』(1972年7月16日公開)
・『仮面ライダーV3対デストロン怪人』(1973年7月18日公開)
・『飛び出す立体映画 イナズマン』(1974年3月16日公開)
・『五人ライダー対キングダーク』(1974年7月25日公開)
・『フィンガー5の大冒険』(1974年7月25日公開)
・『秘密戦隊ゴレンジャー 爆弾ハリケーン』(1976年7月22日公開)
・『ジャッカー電撃隊VSゴレンジャー』(1978年3月18日公開)

こうして見ると、今も燦然と輝きを放ち、後世に多大な影響を及ぼした作品が実に多いことか。
エポック・メイキングな作品も多く、そこに関係諸氏らの意地と野心、そして夢に満ちた挑戦を感じずにはいられない。

では、その源流・『東映生田スタジオ』は、どのような施設で構成されていたのだろうか。
以下は、「仮面ライダーSPIRITS~受け継がれる魂Ⅱ~」(2003年/講談社)に掲載された「完全図解 これが生田スタジオだ!」(監修/内田有作)をベースに作成したスタジオ概略図である。

img014
上:『東映生田スタジオ』概略図(作図/hide男)
広さ(大きさ)や配置は厳密ではなく、また時期によっても異なるが、第3ステージが増設された頃(詳細は改めて記載)と考えて頂きたい。

関連書籍において、これまで何度か『東映生田スタジオ』の現在がルポルタージュされており、また劇中、スタジオの施設それ自体が、言わばセットとして使用されたこともあるため、すぐさま具体的な画や映像が頭に浮かんだ方も多いのではないだろうか。

そこで、当ブログにおける『東映生田スタジオ』の項では、各施設毎での考察を行い、在りし日のスタジオに思いを馳せてみたいと思う。


025004
上:『仮面ライダーアマゾン』第16話より
S025001
上:2011年10月
まずは、俯瞰アングルから。
掲載した映画像は、『仮面ライダーアマゾン』第16話「ガランダーの東京火の海作戦!!」劇中、「市山火薬工場」という設定で映し出された、在りし日の『東映生田スタジオ』。
左より第1ステージ、スタッフルーム、制作ルーム、第2ステージが確認出来る。
映像でここまで広範囲に記録されているものは、これが唯一(実際の映像では、横パン)。
かつて、両脇に森林が迫り、撮影所としては実に狭く鬱蒼としたこの場所で、内田有作を始めとするスタッフ&キャスト陣は情熱を燃やし、『仮面ライダー』を始めとする数々の作品を世に送り出していたのである。

尚、周知のとおり、『東映生田スタジオ』、もとい「細山スタジオ」は、残念ながら既に存在しない。
1978年、東映(東京制作所)は、『透明ドリちゃん』(テレビ朝日)の制作を以って「細山スタジオ」との賃貸契約を解除。
同年5月6日からは、CFなどの撮影スタジオとして「C.A.L」によって管理、使用されたが、こちらも1995年2月末日を以って完全撤退している。
そして、同年3月、諸般の事情により、全ての施設が取り壊され、現在、その跡地は、「土方第一駐車場」と、「櫟」という一軒の蕎麦屋(但し、2011年5月を以って閉店)に姿を変えている。
因みに、関連書籍や一部ネットには、マンション建設が取り壊しの理由と記されているものがあるが、それは事実ではない(更に言えば、「土方第一駐車場」と「櫟」の建設も、その直接の理由ではない)。


【(A)入口方面より】
025006 025007
上2枚:特写より
MGGSAMA001
上:MGG様ご提供写真より(写①)
S025006
上:2012年4月
掲載した特写は、何れもスタジオ入口方面から敷地内を捉えたアングルで、『仮面ライダー』第1話「怪奇蜘蛛男」クランク・イン直後に撮影されたものと思われる。
尚、当時はスタジオに正式な入口(門)はなく、守衛も配備されていなかったという。
また、写真①は、「Looking for locations.」を開設されているMGG様よりご提供頂いた、「C.A.L」期に撮影された大変貴重なスチールである(厳密には、その読者でいらっしゃる匿名の方からご提供されたもので、1991~92年頃に撮影されたとのこと)。
「Looking for locations.」は、『仮面ライダー』を中心とした70年代の特撮番組のロケ地について、現代のそれと比較・考証をされているブログであり、稚ブログにもリンク先を記しているので、その素晴らしい記事の数々を是非ご覧頂きたいと思う。
現在、手前に広がるのが「土方第一駐車場」、奥に見える白い建物が蕎麦屋「檪」である。

S025011 S025012
S025013 S025010
上左:2009年11月
上右:2010年4月
下左:2011年2月
下右:2012年7月
春夏秋冬、季節によって随分と印象の異なる『東映生田スタジオ』(跡地)。
因みに、かつて、この入口周辺に杭が設置されていた時期があったという。
概略図でいう(A)から西側の笹薮の斜面に沿って歩き、(M)の遊歩道①を抜けると、現在の『多摩美公園』、多摩美2丁目、更には『よみうりランド』へと辿り着く。
しかし、スタジオ在りし頃、関係者らの車輌は勿論、機材搬出入用のトラックなども頻繁に出入りし、徒歩での通り抜けが困難になることが度々あったというのだ。
そこは公道ではなかったが、近隣住民の中には良く思わない方もいらっしゃり、抗議の意思表示として杭を設置されたのだという。
このままでは、車輌が敷地内に進入出来ず、仕事にならない。
しかし、今後もスタジオを運営していくには、やはり近隣の方々の理解と協力は不可欠。
内田有作は、すぐさま話し合いの場を設け、別所に関係者用の駐車場を賃貸すると約束、結果、間もなくして杭は撤去されたという。
このエピソードは、箕輪広実氏より伺ったもので、「親父(箕輪正治氏)から聞いた憶えがあります。実は、先日、○○さん(当時から近くにお住いの方)にこの話をしたところ、「あぁ、そんなことがあったなぁ」と、その方もよく憶えていらっしゃいました」とのこと。
今となっては、懐かしい思い出といったところだろうか・・・。
尚、別途、東映が賃貸した駐車場は、ある『東映生田スタジオ』作品にも記録されており、改めて考証を行いたいと思う。

S025015
上:岡村氏ご提供写真より
掲載した写真は、隣接する住宅にお住まいの岡村克彦氏からご提供頂いた、大変貴重なプライベート・スナップ。
時期としては、1974年末頃と思われる。
トラックの荷台に乗っているのは、『仮面ライダーアマゾン』に登場した十面鬼で、その背後に写るのはスタッフルーム、手前の建物は第2ステージである。
よく見ると、第2ステージの入口扉には、「No88」「東日(映のひへん部分)」「田(生田の田?)」の手書き文字が確認出来る。


S025016 S025017
S025018
上3枚:2010年4月
写真に写るお二人は、当時のスタジオの様子を身振り手振りで解説してくださっている、その岡村氏(右)と箕輪広実氏(左)。
「彼はとにかくお酒が大好きで、よく一升瓶を担いで家に来た。いい男だったなぁ」とは、岡村氏による内田有作評。
また、「当時はクーラーが無く、夏場は網戸で寝ていたが、ロケに出発するトラックは早い時には朝4時頃から準備をするので、うるさくて寝られなかった(笑)」「町内の会合によく会議室を借りていた」など、岡村氏からは、スタジオに隣接する場所に居住しなければ体験し得ない、居住していたからこそ体験し得たエピソードも数多く教えて頂いた。
更には、「「C.A.L」の頃、ナブラチロワがCMか何かの撮影で来ていて、うちにトイレを借りに来たことがあった。と言うのも、うちは当時から洋式だったけど、スタジオは和式だったので(笑)。その時、息子はテニス部に所属していて、うちにあったラケットを見つけた彼女はサインをしていった。学校から帰ってきた息子は、当然大喜びだった」という逸話も披露してくださった。


(謝辞)
「C.A.L」期に撮影された写真のご提供、並びに掲載をご快諾頂きましたMGG様、そして元提供者でいらっしゃいます「Looking for locations.」読者の方(匿名)に心より感謝申し上げます。
有難うございました。
また、当時の貴重な逸話を披露してくださった岡村克彦氏に、この場を借りて改めて御礼申し上げます。

(主参考文献)
「仮面ライダーSPIRITS~受け継がれる魂Ⅱ~」(2003年/講談社)


(映画像掲載作品)
『仮面ライダーアマゾン』第16話「ガランダーの東京火の海作戦!!」(1975/2/1放送)


Phase025 End


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Phase022 『東映生田スタジオ』④ 【第1ステージの謎】

(編集前記)
ロケ地に関する記事を暫く続けましたので、久しぶりに『東映生田スタジオ』にについて記したいと思います。
前回掲載分は、phase009 『東映生田スタジオ』③ 【真の裏話】(2017/2/14)ですので、それ以前の記事も含めてご参照頂ければ幸いです。



東映(東京制作所)と「細山スタジオ」との間で交わされた賃貸契約について、関連書籍には「1971年、年明け間もない頃」、或いは「1971年1月」といった記載はあるものの、その具体的締結日は何処にも見当たらない。

1971年1月23日という日付は、本契約書、及び覚書の発見によって明らかとなった。

尚、『東映生田スタジオ』には、最終的に第1ステージ、第2ステージ、第3ステージの三棟のスタジオが存在したが、当初はまだ第3ステージは建てられていない。
また、『東映生田スタジオ』における第1ステージ、第2ステージを、「細山スタジオ」ではそれぞれ第2ステージ(№2ステージ)、第1ステージ(№1ステージ)と呼称していたが、その他の施設も含めて、以下、注釈を記さない限り、本項では『東映生田スタジオ』での呼称で統一する。

S023001 S023002
上2枚:1971年1月23日付で交わされた契約書(以下、契約書①)の一部。
右にある石田人士とは、内田有作に新番組(『仮面ライダー』)制作を言い渡した人物である(Phase006参照)。

契約書①における契約期間は、1971年2月1日から同年4月30日までの三ヶ月間。
その対象物件は、以下の四施設であった。
・第2ステージ
・変電室
・スタッフルーム
・生田美術・小道具倉庫

ここで、すぐさま異論を唱えた方もいらっしゃるだろう。
「『仮面ライダー』のクランク・インは、第1話「怪奇蜘蛛男」における本郷猛の改造手術シーンであり、それは1971年2月7日、第1ステージに組まれたショッカー・アジトのセットで行われたはず」だと。

確かにそのとおりである。
しかし、契約書①には、第1ステージの文字が何処にも見当たらない。
一体、どういうことだろうか?

実は、もう一つ、同日付で交わされた覚書(以下、覚書①)、更には第1ステージも対象物件として記載されている契約書(以下、契約書②)と覚書(以下、覚書②)が存在したのである。
そこに何かヒントがあるのではないだろうか?
以下、考察してみたいと思う。

1月23日付で交わされた覚書①には、「貸主(𡈽方氏、箕輪氏)は、第1ステージを貸主(東映東京制作所)以外の第三者に賃貸する場合は、予めその旨を通知の上、了承を得なければならない。但し、その時点において、希望する場合、借主は優先的に当ステージを賃貸出来る」といった趣旨の内容が記されている。

S023003 S023004
左:1971年3月1日付で交わされた契約書(以下、契約書②)の一部。
内田の印は、おそらく内田有作のものと思われる。
右:同日付で交わされた覚書(以下、覚書②)の一部。

契約書②の対象物件は、以下の五施設。
・第1ステージ
・第2ステージ
・変電室
・スタッフルーム
・生田美術・小道具倉庫

ここで、契約書、及び覚書に則り、一度整理したいと思う(■・・・変電室、スタッフルーム、生田美術・小道具倉庫)。
1月23日・・・・・・・・・・・賃貸契約①締結(覚書①含む)
2月1日~28日・・・・・・・・使用(第2ステージ+■)
3月1日・・・・・・・・・・・・賃貸契約②締結(覚書②含む)
3月1日~4月30日・・・・・・使用(第1ステージ+第2ステージ+■)

真相は如何に―。
上記した覚書①の内容と、クランク・インを考慮すると、契約書①、及び覚書①が交わされた1月23日以降、遅くともクランク・イン前日の2月6日までに、東映(東京制作)側は、第1ステージについても賃貸を希望し、𡈽方氏、箕輪氏も承諾したと考えてまず間違いないだろう。

ではそもそも何故、同じ「細山スタジオ」の施設であるにも関わらず、1月23日の賃貸契約①締結時に、第1ステージを盛り込まなかったのか、以下に考察してみたいと思う。

まず以って、春の放送開始まで残された時間はあと僅か。
にも関わらず、制作拠点となるスタジオが確保出来ていなかった状況は、東映(東京制作所)、殊に内田有作にとっては、文字どおり危急存亡の心中だったはず。
最低限1クール分の制作に必要な期間(少なくとも三ヶ月ぐらいか?)が賃貸出来さえすれば、スタジオのスペースが余程狭く無い限り、例え一棟だけでも契約を締結したかったに違いない。
そのため、まずは〝スタジオの確保〟を実現させることを優先とし、前述、最低限必要な条件(対象施設)がクリア出来てさえいればよいと判断、その後の使用も鑑み(不測の事態に備え)、第1ステージを対象とした覚書①を準備したうえで、契約書①を締結したのではないだろうか。
或いは、当契約締結時、例の荷物が第1ステージにまだ多少残っていたのだろうか・・・。
これはあくまで憶測の域だが、少なくとも東映側が、間もなくして第1ステージに関しても賃貸を希望したことは、史実からしても疑う余地は無い。

では、何故、東映側が、第1ステージの賃貸を希望した段階(1月23日~2月6日の何れか。但し、セットの組み立てを考えれば、前日の2月6日は有り得ないのではないだろうか)で、別途、契約書は作成されなかったのだろうか。
契約書②、つまり3月1日付で交わされた契約書の第13条には、「本契約締結と同時に、1月23日付で締結した賃貸契約は失効する」旨の記載があり、1月24日以降、2月末日までの間に別途契約書が作成されていないことは明らかである。
この点について、箕輪氏のご子息・広実氏から大変興味深い証言を得ているので紹介したいと思う。

「親父(編注:正治氏)は、日取りを決める時、切りが良い日を好みました。例えば、この件について、実際には1月24日から第1ステージが使用されていたとしても、契約開始日は2月1日にしたと思います。ですから、契約(編注:契約書②)上、契約期間が3月1日になっていることから考えて、東映は2月に入ってから第1ステージを使わせて欲しいと言ったと思います。もしも、1月中に使いたいと言ってきていたら、第1ステージを盛り込んだもの(契約期間は2月1日~4月30日)に作り直し、再契約したと思うんです。この契約書(契約書①)の日付が1月23日になっているのは、最初の契約だったので、実際の日付通りにしたんだと思います。つまり、2月に入ってすぐに、東映は第1ステージについても賃貸を希望、親父たちは、2月中は無償で貸し、3月1日という切りの良い日付でこの契約(契約書②)を結び直したんじゃないかと考えられます。親父は、そういう性格でした」(談/箕輪広実氏)

残念ながら、箕輪正治氏は既に他界されており、また𡈽方氏も憶えていらっしゃらないとのことで、真相は藪の中。
しかし、正治氏の性格を熟知している広実氏の証言は大変興味深く、且つ経時的にも辻褄の合う考察と言えよう。
現段階では、広実氏の推察に則ったこの経緯が、最も信憑性が高いと思われる。

ここで、氏の推察に則り、改めて経緯を時系列にまとめてみると以下のようになる。
1月23日・・・・・・・賃貸契約①締結(覚書①含む)
2月1日~X日・・・・・使用(第2ステージ+■)
2月X日・・・・・・・・東映が第1ステージ使用を希望し、𡈽方、箕輪両氏も了承
2月7日・・・・・・・・クランク・イン
2月X日~28日・・・・使用(第1ステージ+第2ステージ+■)
3月1日・・・・・・・・賃貸契約②締結(再)(覚書②含む)
3月1日~4月30日・・使用(第1ステージ+第2ステージ+■)
■・・・・変電室、スタッフルーム、生田美術・小道具倉庫
X日・・・不明(但し、2月1日~6日と推察される)

因みに、スタジオの運営について、広実氏はこのように仰っている。
「二人の間に明確な役割分担はなかったようですが、交渉は主に𡈽方さんと親父の二人で、経理や事務などの細かい仕事は専ら𡈽方さんに担当してもらっていたようです。生前、親父からそのような話を聞いたことがあります」(箕輪広実氏)

以上、当初のスタジオ使用について、新たに発見された契約書、覚書をもとに考察を試みた。
これら資料は、『東映生田スタジオ』の歴史を知る上で、史料的にも大変貴重なものではあるが、当初、𡈽方氏、箕輪氏、そして石田人士(東映東京制作所)所有用に各々三部ずつ作成されたものの、少なくとも箕輪氏所有分については、残念ながら既に現存しない。

何れにせよ、『東映生田スタジオ』の正式な開設日は、1971年2月1日であったことは断言出来る。


(編集後記)
今回、第1ステージの謎につきまして、愚生なりに考察を試みました。
と申しましても、所詮はド素人の考え。
実は○○ではないか、△△ではないだろうか・・・などのご一考、ご意見が御座いましたら、お聞かせ願えれば幸いと存じます。
宜しくお願い致します。

尚、今回、記載しております契約書、及び覚書は、その性格上、写真も含め、詳細な掲載は控えさせて頂きます。
一部掲載しました写真は、𡈽方工作氏、𡈽方進一氏のご厚意によるものです。
両氏には、この場を借りて御礼申し上げます。


Phase022 End


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