Phase006 『東映生田スタジオ』①【開設前夜】

大映が「細山スタジオ」を後にした翌月、つまり1970年12月、ある人物が𡈽方氏のもとを訪ねている。
「普通の・・・、その辺りにいる普通の人だったなぁ(笑)」
彼の第一印象を、𡈽方氏はそう述懐されている。


時を同じくして―。
東京都練馬区東大泉にある東映東京撮影所には、当時、テレビ作品(実写)を手掛けるセクションとして、東映テレビ・プロダクションと東映東京制作所という二つの株式会社が存在した。

1959年に設立された東映テレビ・プロダクションは、原則としてNET(日本教育テレビ、現・テレビ朝日)の番組を手掛けるセクションで、長寿番組として有名な、国産初の一時間連続ドラマ『特別機動捜査隊』(1961年)などを制作している。
尚、1958年に設立されるも、程無くして放映後のテレビ映画(番組)を各劇場に配給することを目的に東映テレビ映画、更には第二東映と商号変更を行った東映テレビ・プロダクションは、同名称ではあるが、厳密に言うと別会社である。

一方の東映東京制作所は、PR映画、或いはNET以外の番組制作を目的に、1965年に設立されたセクションで、例えばTBSの『キイハンター』(1968年)、東京12チャンネル(現・テレビ東京)の『プレイガール』(1969年)といった作品を制作している(但し、第一回制作作品の『スパイキャッチャーJ3』(1965年)を始め、一部NETからの発注作品も制作している)。
但し・・・。
その存在意義には、もう一つの側面があったと云われている。
組合運動を率いていた猛者達の配転先、つまりは、事実上、彼らの隔離先という性格を伴っていたと。


それ以前―。
娯楽と言えば映画と言われた時代。
1960年には、年間最多となる547本の作品が制作されているが、実際には、1958年をピークに観客数は減少、衰弱の一途を辿っていた。
人々の娯楽内容の変化、及びその選択肢が増えたことが大きな要因と云われている。
中でも、テレビの急速な普及は、映画業界に極めて深刻な影響を与えたという。

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かつては「時代劇と言えば東映、東映と言えば時代劇」と評され、その後も数多くの名作、ヒット作を世に送り出していた東映でさえ、その斜陽化は避けられず、経営陣は徹底した合理化を展開した。
人員削減策も、その一つ。
中でも、1964年6月19日、T氏(当時、東映労働組合東京撮影所支部委員長)に出された解雇通達は、その後、泥沼化する労働闘争の引き金となり、ある意味、東映の歴史を変えるターニング・ポイントだったと云われている。
抗議集会、デモ行進、ピケットラインを張ってのストライキ・・・、激化する組合運動に対し、会社側は、更に東映東京撮影所労働組合という別組織を旗揚げ、組合の分断、切り崩しを行ったという。

しかし、それでも屈しない東映労働組合員らに対し、経営陣らは、ある辞令を交付した。
「映画の労働者たち 写真と証言 東映東京撮影所1964・6・19~1985・10・1」(編/東映東京制作所闘争記録委員会 1990年/東映労働組合)には、当時の様子が次のように記されている。
「65年8月に所内の機構として「制作所」をつくり、174名を強制配転した。実にその8割以上は東映労組員で、特に、数日後の定期大会に向けて、次期役員に立候補したメンバーは一人も漏れなく指名されるなど、弾圧、隔離のための意図はみえみえで「なりふり構わぬ」やり口であった。そして、4ヶ月後の同年12月には「株式会社 東映東京制作所」、資本金50万円の子会社として発足させた。組合員には配転辞令の外に、もう一枚出向辞令が各自の家宛に送付された」(原文まま)

映像の世界では、〝本編〟と呼ばれた映画に対し、テレビはまだまだ格下の扱いで〝電気紙芝居〟と揶揄されていた時代。
彼らにとって、テレビ部門への配置転換は、屈辱以外の何ものでもなかったに違いない。
その怒りは、働く(=映画、場合によっては映像作品を手掛ける)権利を求めて、更なる組合運動という形で具現化していった。
実際、当時の東映は、あとワン・シーンだけ撮影が残っていたとしても、夕方5時になれば電気を一斉に消してしまうような常に緊迫した状況が続いていたという。

因みに、後に『仮面ライダー』を始め、数々の東映児童向けテレビ作品を手掛けることとなる平山亨もまた、映画の斜陽化の影響を受け、テレビ部への異動を命じられた一人。
1965年、映画監督の任を解かれ、京都撮影所から異動してきた時の状況、心情を、彼は、著書「泣き虫プロデューサーの遺言状~TVヒーローと歩んだ50年~」(2012年/講談社)の中で、次のように記している。
「当時のテレビ部は本社の7階にある映画部の隅っこを間借りしている状態。衝立で仕切っただけのわずかなスペースで、自分の机もなく廊下の椅子に座らされた私は、「えらいところにきちゃったな」というのが正直な感想だった」(原文まま)


東映東京制作所にて―。
「東京制作所は東映内の組織でありながら、東映とは対峙した関係だったんです」(原文まま、「仮面ライダーSPIRITS~受け継がれる魂~」(2002年/講談社)より)

そう語るのは、内田有作。
1934年2月3日、『血槍富士』(1955年/東映)や『宮本武蔵』(1961年/東映)などで著名な映画監督・内田吐夢の次男として生まれた彼は、1957年、法政大学を卒業後、東映京都制作所へ助監督として入社。
1960年、東映東京制作所に転属となり、翌年には同所の制作部に異動している。
そこで、父の監督作品『飢餓海峡』(1965年/東映)に制作主任として参画するが、上層部が指示する尺詰め(上映時間を短くするため、フィルムをカットすること)を拒否したことに関わったとして、新宿東映の副支配人へと更迭(当時、「フィルム・カット事件」という見出しで大きく報道された)。
その後も、本社興業部、丸の内東映パラス支配人など暫く現場を離れるが、1969年、東映東京制作所の管理課長として第一線への復帰を果たしていた。

当時、東映東京制作所長を務めていたのは、石田人士。
労組問題の際、会社側の中心的立場にいたことから東京制作所の所長に左遷されていた人物である。
内田は、その石田から、所内にあった関連事業室の室長任務を打診される。
この辺りの事情は、後年、彼が述懐している石田とのやり取りに詳しい。

石田「お前も知ってのとおり、今、東映の労使関係は泥沼になっている。ここらで、全く意表を突くような形で、おまえに外の仕事をやってもらいたいんだ」
内田「石田さんの頼みとあらば。けど、肝心のシャシン(編注:作品のこと)はあるんですか?」
石田「『仮面ライダー』というシャシンだ。おまえはそれを持って、この大泉じゃない所で新しい現場を旗揚げするんだ。それは組合の連中に対しても、凄まじい刺激になるだろうし・・・」
(原文一部改、「KODANSHA Official File Magazine 仮面ライダー Vol.1」(2004年/講談社)より)

内田の記憶によると、『柔道一直線』(1969年/TBS)の制作担当を務めていた1970年11月下旬頃の話だったという。
だとすれば、彼の述懐には一部誤りがあり、この段階では、『仮面ライダー』という番組タイトルは正式には決定していない。
しかし、ここにあるように、当時、東映は労使闘争の真っ只中。
内田は述懐する。
「当時の組合は労働者の人権を主張するばかりで、良い映画を撮ろうという姿勢が全く無かった。更には経営感覚というものさえ無く、世に出した作品は全て赤字という状況だった。石田さんは「小さい枠の中で喧嘩をしてる場合じゃない。もっとグローバルに物事を考えなければ駄目なんだ」って。それを彼らに見せつけたかったんですよ」(原文一部改、「仮面ライダーSPIRITS~受け継がれる魂~」(2002年/講談社)より)

会社側の立場にあった石田が、新しい現場確保に、労組問題の影響回避を求めたのは当然のこと。
その一方で、〝活動屋〟としての誇りと魂を彼らに呼び覚まそうとする狙いも間違いなくあったと思われる。
関連書籍に、石田の声を見つけることは出来ないが、所長(会社側)の立場からだけでなく、同じ〝活動屋〟として彼らの苦悩を間近で見てきたのもまた事実。
何とも遣る瀬無い、そんな気持ちだったのではないだろうか・・・。

「これ以上、大泉でやっていても、もう何も出て来やしない。要するに、テレビという場で幾ら経営サイドや企画サイドが良いものを与えても、実際に作る所が旧体制のままじゃ、結局は駄目だと思っていたんで、大泉から飛び出して腹を括ってやろうと決心したんです」(談/内田有作)
( 原文まま、「テレビマガジン特別編集 テレビマガジン70’s ヒーロー創世期メモリアル」(1998年/講談社)より)


川崎市某所にて―。
大映が「細山スタジオ」を後にした翌月、つまり1970年12月、ある人物が𡈽方氏のもとを訪ねている。
「普通の・・・、その辺りにいる普通の人だったなぁ(笑)」
彼の第一印象を、𡈽方氏はそう述懐されている。


(主参考文献)
「生きているヒーローたち 東映TVの30年 講談社ヒットブックス⑯」(1989年/講談社)
「映画の労働者たち 写真と証言 東映東京撮影所1964・6・19~1985・10・1」(編/東映東京制作所闘争記録委員会 1990年/東映労働組合)
「テレビマガジン特別編集 テレビマガジン70’s ヒーロー創世期メモリアル」(1998年/講談社)
「不滅のヒーロー 仮面ライダー伝説」(著/岡 謙二 1999年/ソニー・マガジンズ)
「仮面ライダーSPIRITS~受け継がれる魂~」(2002年/講談社)
「KODANSHA Official File Magazine 仮面ライダー Vol.1」(2004年/講談社)
「泣き虫プロデューサーの遺言状~TVヒーローと歩んだ50年~」(著/平山亨 2012年/講談社)


(編集後記)
今回は、「細山スタジオ」が『東映生田スタジオ』と呼ばれていた時代を振り返るにあたり、その背景を記しました。
コアなファンの方々にとっては、既知の情報であり、少々物足りなかったと思われます。
しかし、中には、『東映生田スタジオ』という名前を初めて知ったと仰る方もいらっしゃり、ここを触れなければ、『仮面ライダー』が大泉で制作されなかった理由が明確にならないため、敢えて当Phaseで取り上げることとしました。
ご容赦ください。


Phase006 End


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