Phase008 『東映生田スタジオ』②【1971年1月23日】

「『柔道一直線』が終盤に差し掛かった頃、「折ちゃん、頼むよ」って言われて。有作さんは全部、話をしない人なんで、何を頼まれたのか分からない(笑)。聞いてみると、どうも大泉を出て別の場所でやるらしいと。有作さんはまた、いろいろ頼む人でもあるんで(笑)、結局、僕が運転してスタジオ探しから付き合ったわけです」(原文一部改、「KODANSHA Official File Magazine 仮面ライダー Vol.3」(2004年/講談社)より)

そう語るのは、折田至。
1965年、東映京都撮影所から東京制作所に異動となった彼は、翌年、『丸出だめ夫』(NTV)で監督デビュー。
『悪魔くん』(1966年/NET)などの演出を経て、内田有作の要請により『柔道一直線』(1969年/TBS)へ参画(内田は同作品で制作担当)、後に、主軸監督の一人として、『東映生田スタジオ』を支えた人物である(Phase004参照)。
彼の言う〝有作さん〟とは、勿論、内田有作のこと。
折田が一年後輩にあたるが、二人の配属先は共に京都撮影所。
面識は、その頃からあったという。

東映東京撮影所が労組問題で揺れていたその裏で、事は極秘のうちに進められた。
新番組は、組合側にとって恰好のターゲット。
会社側にとって、その制作現場を押さえられるということは、切り札的交渉材料を与えたのも同然。
結果、大きなビハインドとなり得たわけである。

その制作拠点を、彼らはまず多摩川周辺に求めている。
当時、他社の撮影所は多摩川周辺に集中していたが、東映は南大泉。
多摩川の近くならば、東映とは縁のないスタジオがあるかもしれない、そう睨んだからだという。
しかし、現実は厳しく、何処も既に先約が・・・、短期ならともかく、長期での契約は難しいというものばかりであった。

そんなある日、転機が訪れる。
「かれこれ二週間は探した頃でしょうか、たまたま訪れた多摩スタジオで、そこにいた大道具さんから「よみうりランドの裏手に、今はもう殆んど使ってないスタジオがあるよ」って話を聞いたんです。その時の感動は今でも忘れられませんね。で、すぐに車を飛ばして行ったら・・・、あったんですよ、平台も何も無いスタジオが(笑)」(談/内田有作 原文一部改、「KODANSHA Official File Magazine 仮面ライダー Vol.1」(2004年/講談社)より)

1970年12月下旬、彼らが行き着いた場所、それが「細山スタジオ」だった。


東映生田スタジオ(1974)
上:在りし日の『東映生田スタジオ』(国土交通省・航空写真(1974年)より)


その時の模様を、内田は、異なる機会で次のように述懐している。

「スタジオと呼べるようなものじゃなくて、平台も無い、側だけ。時々、何か撮っていたらしいですが、平台が無くては本格的なセットは組めないですから、やっていたとしても半端な仕事しか出来ない。殆んど倉庫代わりのものだったんですよ」(原文一部改、「テレビマガジン70’s ヒーロー創世期メモリアル」(1998年/講談社)より)

「尤も、駆けつけた当のスタジオの中はがらんどうでした。(中略)建物自体は建ってから三、四年くらいで、まだ新しかったんですけど、スタジオとは名ばかり。側だけのバラックで、平台も何も無い倉庫のような場所でした」(原文一部改、「仮面ライダーSPIRITS~受け継がれる魂~」(2002年/講談社)より)

また、前述「KODANSHA Official File Magazine 仮面ライダーVol.1」には、「設備が不足していたのは平台(セットを組む上で不可欠な一間四方の木製基礎土台)だけではない。天井を見上げれば照明の足場となるブリッジもなく、ただ裸電球ひとつがブラ下がっているだけ。スタッフルームと称する粗末なプレハブには電話回線さえ通っていなかった」とある。

更に、プロデューサー・平山亨(Phase006参照)は、著書「仮面ライダー名人列伝~子供番組に奇蹟を生んだ男たち~」(風塵社・1998年)の中で、初めてスタジオを訪れた時の様子を回想。
その内田とのやり取りにおいて、「何だ、こりゃ?」「こ、ここで!?スタジオって言うが、何もないじゃないか!」と、自身の言葉を記している。

果たしてこれら述懐や回想が事実であるとするならば、それ以前の『新婚さん旧婚さん』(1969年/歌舞伎座テレビ室・日本テレビ)は、一体どのようにして制作されたのだろうか。
況して、内田らが訪れる約一ヶ月半前まで、「細山スタジオ」では『女三四郎 風の巻』(1970年/東京12チャンネル)が制作されていたのである。
契約の締結、解除の度に、設備の設置、解体を繰り返したのだろうか。
まず常識では考えられない。
事実、三上陸男と高橋章(共に『仮面ライダー』で美術・造型を担当)は、「宇宙船別冊 仮面ライダー 怪人大画報 2016」(2016年/ホビージャパン)掲載用に行われた対談時、「以前から撮影所として使っていたわけだから、全く何もなかったわけじゃないと思う」(談/高橋章)、「一応はあったんだろうけど、随分こっちで作り足しましたよ」(談/三上陸男)と語っている。

また、前述した平山の著書には、内田の言葉として「やろう。今は平台も無いけれど、やると決まればオーナーは平台から照明足場からホリゾントまで必要な物はすべてサービスすると言っている」とある。
しかし、これが記された時点で既に三十年近くが経過しており、況して平山の筆を借りての内田のセリフ。
あくまでニュアンスとして捉えるべきと思われるが、実際に平山を説得するために、内田が鎌をかけた可能性も捨て切れない。

ただこの点に関連して、𡈽方氏からは次のような証言を得ている。
「最初、120坪(編注:ステージ)の中に柱一本なかったんだからね。土台は、正ちゃん(編注:箕輪正治氏)と二人で木を伐って作ったんだ。照明のこれ(編注:ブリッジ)も、二人で上って作ったんだ。ちゃんとした業者に頼むと高いから(笑)」(談/𡈽方工作氏)

具体的時期について、氏は言及されていないが、少なくとも最初に平台とブリッジを作ったのは、𡈽方、箕輪の両氏であり、時期としては、おそらく『新婚さん旧婚さん』の制作開始前だったと思われる。

ただ内田や平山の目からすれば、つまり〝活動屋〟というプロの目からすれば、決して満足のいくものではなかった、それが、一連のコメントのように表現されたのではないだろうか。
一方、「スタッフルームと称する粗末なプレハブには電話回線さえ通っていなかった」という点については、十分に有り得る話である。
固定電話の普及が過渡期であった当初、「細山スタジオ」では臨時で設置したという𡈽方氏の証言(Phase001参照)を鑑みると、契約期間中、つまり実際にスタジオが稼働していた時のみ回線が引かれた可能性が高い。

「細山スタジオ」に対する第一印象について、内田の述懐には、多少誇張された部分があるかもしれない。
しかし、撮影所としてのハード面、更にはソフト面において、それまで彼が見てきた東映の施設とは明らかに異なり、少なくとも当初、満足していなかったことは間違いない。
が、新番組放送開始まで残された時間も極僅か。
かと言って、他に当てもなく、彼は「細山スタジオ」での制作を決意する。

「もう、内田氏のパワーに飲み込まれていた」(「仮面ライダー名人列伝~子供番組に奇蹟を生んだ男たち~」(著/平山亨 1998年/風塵社)より)
平山同様、折田も覚悟を決める。
「東映の社員として、大泉を出てまでやる以上は、これがダメなら人生終わりだなって思ってましたよ。組合を抜けて生田に行って、当然、そちらからも睨まれましたから」(原文まま、「KODANSHA Official File Magazine 仮面ライダー Vol.3」(2004年/講談社)より)


そして・・・。
1971年1月23日、正式契約締結。
内田有作が、石田人士の命を受けてから、約二ヶ月後のことであった。


(主参考文献)
「テレビマガジン70’s ヒーロー創世期メモリアル」(1998年/講談社)
「仮面ライダー名人列伝~子供番組に奇蹟を生んだ男たち~」(風塵社・1998年)
「仮面ライダーSPIRITS~受け継がれる魂~」(2002年/講談社)
「KODANSHA Official File Magazine 仮面ライダー Vol.1」(2004年/講談社)
「KODANSHA Official File Magazine 仮面ライダー Vol.3」(2004年/講談社)
「宇宙船別冊 仮面ライダー 怪人大画報 2016」(2016年/ホビージャパン)


(編集後記)
1月23日・・・、実は当ブログを開設した日でもあります。
正直、拘りました。


Phase008 End


お願い&お断り
〇当ブログの記事、図版、画像などを無断で複写、複製、転載、データ化することはご遠慮願います(諸般の事情により、一部、画像処理を施してあります)。
〇当ブログ中、一部を除き、関係者の名は当時のものを記載し、敬称は省略させて頂きます。
〇ロケ地紹介などで掲載する写真の中には、経年の結果、撮影時とは更に変貌を遂げている箇所があります(参考までに撮影年月を記載します)。



当ブログは、管理人個人の趣味の範疇にあり、作品の配給元とは一切関係なく、利益を得ること、著作権を侵害する意図は一切ございません。
比較などのために引用する画像の権利は、全て原権利者に帰属します。

Phase006 『東映生田スタジオ』①【開設前夜】

大映が「細山スタジオ」を後にした翌月、つまり1970年12月、ある人物が𡈽方氏のもとを訪ねている。
「普通の・・・、その辺りにいる普通の人だったなぁ(笑)」
彼の第一印象を、𡈽方氏はそう述懐されている。


時を同じくして―。
東京都練馬区東大泉にある東映東京撮影所には、当時、テレビ作品(実写)を手掛けるセクションとして、東映テレビ・プロダクションと東映東京制作所という二つの株式会社が存在した。

1959年に設立された東映テレビ・プロダクションは、原則としてNET(日本教育テレビ、現・テレビ朝日)の番組を手掛けるセクションで、長寿番組として有名な、国産初の一時間連続ドラマ『特別機動捜査隊』(1961年)などを制作している。
尚、1958年に設立されるも、程無くして放映後のテレビ映画(番組)を各劇場に配給することを目的に東映テレビ映画、更には第二東映と商号変更を行った東映テレビ・プロダクションは、同名称ではあるが、厳密に言うと別会社である。

一方の東映東京制作所は、PR映画、或いはNET以外の番組制作を目的に、1965年に設立されたセクションで、例えばTBSの『キイハンター』(1968年)、東京12チャンネル(現・テレビ東京)の『プレイガール』(1969年)といった作品を制作している(但し、第一回制作作品の『スパイキャッチャーJ3』(1965年)を始め、一部NETからの発注作品も制作している)。
但し・・・。
その存在意義には、もう一つの側面があったと云われている。
組合運動を率いていた猛者達の配転先、つまりは、事実上、彼らの隔離先という性格を伴っていたと。


それ以前―。
娯楽と言えば映画と言われた時代。
1960年には、年間最多となる547本の作品が制作されているが、実際には、1958年をピークに観客数は減少、衰弱の一途を辿っていた。
人々の娯楽内容の変化、及びその選択肢が増えたことが大きな要因と云われている。
中でも、テレビの急速な普及は、映画業界に極めて深刻な影響を与えたという。

P00601S

P00602S

かつては「時代劇と言えば東映、東映と言えば時代劇」と評され、その後も数多くの名作、ヒット作を世に送り出していた東映でさえ、その斜陽化は避けられず、経営陣は徹底した合理化を展開した。
人員削減策も、その一つ。
中でも、1964年6月19日、T氏(当時、東映労働組合東京撮影所支部委員長)に出された解雇通達は、その後、泥沼化する労働闘争の引き金となり、ある意味、東映の歴史を変えるターニング・ポイントだったと云われている。
抗議集会、デモ行進、ピケットラインを張ってのストライキ・・・、激化する組合運動に対し、会社側は、更に東映東京撮影所労働組合という別組織を旗揚げ、組合の分断、切り崩しを行ったという。

しかし、それでも屈しない東映労働組合員らに対し、経営陣らは、ある辞令を交付した。
「映画の労働者たち 写真と証言 東映東京撮影所1964・6・19~1985・10・1」(編/東映東京制作所闘争記録委員会 1990年/東映労働組合)には、当時の様子が次のように記されている。
「65年8月に所内の機構として「制作所」をつくり、174名を強制配転した。実にその8割以上は東映労組員で、特に、数日後の定期大会に向けて、次期役員に立候補したメンバーは一人も漏れなく指名されるなど、弾圧、隔離のための意図はみえみえで「なりふり構わぬ」やり口であった。そして、4ヶ月後の同年12月には「株式会社 東映東京制作所」、資本金50万円の子会社として発足させた。組合員には配転辞令の外に、もう一枚出向辞令が各自の家宛に送付された」(原文まま)

映像の世界では、〝本編〟と呼ばれた映画に対し、テレビはまだまだ格下の扱いで〝電気紙芝居〟と揶揄されていた時代。
彼らにとって、テレビ部門への配置転換は、屈辱以外の何ものでもなかったに違いない。
その怒りは、働く(=映画、場合によっては映像作品を手掛ける)権利を求めて、更なる組合運動という形で具現化していった。
実際、当時の東映は、あとワン・シーンだけ撮影が残っていたとしても、夕方5時になれば電気を一斉に消してしまうような常に緊迫した状況が続いていたという。

因みに、後に『仮面ライダー』を始め、数々の東映児童向けテレビ作品を手掛けることとなる平山亨もまた、映画の斜陽化の影響を受け、テレビ部への異動を命じられた一人。
1965年、映画監督の任を解かれ、京都撮影所から異動してきた時の状況、心情を、彼は、著書「泣き虫プロデューサーの遺言状~TVヒーローと歩んだ50年~」(2012年/講談社)の中で、次のように記している。
「当時のテレビ部は本社の7階にある映画部の隅っこを間借りしている状態。衝立で仕切っただけのわずかなスペースで、自分の机もなく廊下の椅子に座らされた私は、「えらいところにきちゃったな」というのが正直な感想だった」(原文まま)


東映東京制作所にて―。
「東京制作所は東映内の組織でありながら、東映とは対峙した関係だったんです」(原文まま、「仮面ライダーSPIRITS~受け継がれる魂~」(2002年/講談社)より)

そう語るのは、内田有作。
1934年2月3日、『血槍富士』(1955年/東映)や『宮本武蔵』(1961年/東映)などで著名な映画監督・内田吐夢の次男として生まれた彼は、1957年、法政大学を卒業後、東映京都制作所へ助監督として入社。
1960年、東映東京制作所に転属となり、翌年には同所の制作部に異動している。
そこで、父の監督作品『飢餓海峡』(1965年/東映)に制作主任として参画するが、上層部が指示する尺詰め(上映時間を短くするため、フィルムをカットすること)を拒否したことに関わったとして、新宿東映の副支配人へと更迭(当時、「フィルム・カット事件」という見出しで大きく報道された)。
その後も、本社興業部、丸の内東映パラス支配人など暫く現場を離れるが、1969年、東映東京制作所の管理課長として第一線への復帰を果たしていた。

当時、東映東京制作所長を務めていたのは、石田人士。
労組問題の際、会社側の中心的立場にいたことから東京制作所の所長に左遷されていた人物である。
内田は、その石田から、所内にあった関連事業室の室長任務を打診される。
この辺りの事情は、後年、彼が述懐している石田とのやり取りに詳しい。

石田「お前も知ってのとおり、今、東映の労使関係は泥沼になっている。ここらで、全く意表を突くような形で、おまえに外の仕事をやってもらいたいんだ」
内田「石田さんの頼みとあらば。けど、肝心のシャシン(編注:作品のこと)はあるんですか?」
石田「『仮面ライダー』というシャシンだ。おまえはそれを持って、この大泉じゃない所で新しい現場を旗揚げするんだ。それは組合の連中に対しても、凄まじい刺激になるだろうし・・・」
(原文一部改、「KODANSHA Official File Magazine 仮面ライダー Vol.1」(2004年/講談社)より)

内田の記憶によると、『柔道一直線』(1969年/TBS)の制作担当を務めていた1970年11月下旬頃の話だったという。
だとすれば、彼の述懐には一部誤りがあり、この段階では、『仮面ライダー』という番組タイトルは正式には決定していない。
しかし、ここにあるように、当時、東映は労使闘争の真っ只中。
内田は述懐する。
「当時の組合は労働者の人権を主張するばかりで、良い映画を撮ろうという姿勢が全く無かった。更には経営感覚というものさえ無く、世に出した作品は全て赤字という状況だった。石田さんは「小さい枠の中で喧嘩をしてる場合じゃない。もっとグローバルに物事を考えなければ駄目なんだ」って。それを彼らに見せつけたかったんですよ」(原文一部改、「仮面ライダーSPIRITS~受け継がれる魂~」(2002年/講談社)より)

会社側の立場にあった石田が、新しい現場確保に、労組問題の影響回避を求めたのは当然のこと。
その一方で、〝活動屋〟としての誇りと魂を彼らに呼び覚まそうとする狙いも間違いなくあったと思われる。
関連書籍に、石田の声を見つけることは出来ないが、所長(会社側)の立場からだけでなく、同じ〝活動屋〟として彼らの苦悩を間近で見てきたのもまた事実。
何とも遣る瀬無い、そんな気持ちだったのではないだろうか・・・。

「これ以上、大泉でやっていても、もう何も出て来やしない。要するに、テレビという場で幾ら経営サイドや企画サイドが良いものを与えても、実際に作る所が旧体制のままじゃ、結局は駄目だと思っていたんで、大泉から飛び出して腹を括ってやろうと決心したんです」(談/内田有作)
( 原文まま、「テレビマガジン特別編集 テレビマガジン70’s ヒーロー創世期メモリアル」(1998年/講談社)より)


川崎市某所にて―。
大映が「細山スタジオ」を後にした翌月、つまり1970年12月、ある人物が𡈽方氏のもとを訪ねている。
「普通の・・・、その辺りにいる普通の人だったなぁ(笑)」
彼の第一印象を、𡈽方氏はそう述懐されている。


(主参考文献)
「生きているヒーローたち 東映TVの30年 講談社ヒットブックス⑯」(1989年/講談社)
「映画の労働者たち 写真と証言 東映東京撮影所1964・6・19~1985・10・1」(編/東映東京制作所闘争記録委員会 1990年/東映労働組合)
「テレビマガジン特別編集 テレビマガジン70’s ヒーロー創世期メモリアル」(1998年/講談社)
「不滅のヒーロー 仮面ライダー伝説」(著/岡 謙二 1999年/ソニー・マガジンズ)
「仮面ライダーSPIRITS~受け継がれる魂~」(2002年/講談社)
「KODANSHA Official File Magazine 仮面ライダー Vol.1」(2004年/講談社)
「泣き虫プロデューサーの遺言状~TVヒーローと歩んだ50年~」(著/平山亨 2012年/講談社)


(編集後記)
今回は、「細山スタジオ」が『東映生田スタジオ』と呼ばれていた時代を振り返るにあたり、その背景を記しました。
コアなファンの方々にとっては、既知の情報であり、少々物足りなかったと思われます。
しかし、中には、『東映生田スタジオ』という名前を初めて知ったと仰る方もいらっしゃり、ここを触れなければ、『仮面ライダー』が大泉で制作されなかった理由が明確にならないため、敢えて当Phaseで取り上げることとしました。
ご容赦ください。


Phase006 End


お願い&お断り
〇当ブログの記事、図版、画像などを無断で複写、複製、転載、データ化することはご遠慮願います(諸般の事情により、一部、画像処理を施してあります)。
〇当ブログ中、一部を除き、関係者の名は当時のものを記載し、敬称は省略させて頂きます。
〇ロケ地紹介などで掲載する写真の中には、経年の結果、撮影時とは更に変貌を遂げている箇所があります(参考までに撮影年月を記載します)。



当ブログは、管理人個人の趣味の範疇にあり、作品の配給元とは一切関係なく、利益を得ること、著作権を侵害する意図は一切ございません。
比較などのために引用する画像の権利は、全て原権利者に帰属します。
プロフィール

hide男

Author:hide男
東映生田スタジオと同作品ロケ地研究の場です。

当ブログは、管理人個人の趣味の範疇にあり、作品の配給元とは一切関係なく、利益を得ること、著作権を侵害する意図は一切ございません。
比較などのために引用する画像の権利は、全て原権利者に帰属します。

最新記事
最新コメント
月別アーカイブ
カテゴリ
アクセスカウンター
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR